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「繊細」で悩んだ自分、良かった自分

0.はじめに

・この文章は、とある人間が自己の性格が原因で悩んだエピソード、繊細さについての深掘り、僕から伝えたいことの3部構成となっています。
・僕の目線で語る部分も多いので、書いているすべてのことを鵜呑みにする必要はありません。自己の目線で咀嚼しつつお楽しみください。
・途中重苦しい話があります。注意してお読みください。
・ものを書くのは初めてゆえ、駄文をお許しください。
・前置き長すぎ罪で逮捕されそうなので、本編へ参ります。

1.僕がまだ自分の繊細さを知らなかった頃

~中学まで~

ある年の冬、関西のとある病院で家族として三人目の子供として生を授かった僕は、祖父母曰く「ようけ大きな声で泣いていた」赤ん坊だったという。

実際、小・中学生になっても、自分の取り柄はその持ち前の大きな声だったことを覚えている。国語の音読の時間ではクラスの誰よりもはきはきと文を読み、学校の校歌もなるべく大きな声で歌っていた。そうすると、周りの先生は自分を褒めてくれた。褒められると自己肯定感が上がっていくのが感じられていたと思う(無論、『自己肯定感』なんて言葉はその当時は知らないのだが)。

さらに自分は、先生に言われて良いと思ったことはとりあえずこなすようになっていった。具体的には、クラスがざわついてたら持ち前の大きな声で「静かにしてー」って言う側の人間だった。ついでにテストの点も良かったため、周りからは優等生っぽい感じに思われていたし自分も周りからの評判をわりと誇っていた。そんなこともあり、クラスでは学級委員長に選ばれたり、音楽コンクールでもパート長という役職に選ばれたりすることが多かった。

とはいえ、小中学生で何かの「長」になったとて先生から言われたことをする受身的な感じでもだいたい事が進むのでたかが知れている(高校では既にリーダー的気質を自覚している人が自分のその立場と取って代わっていた)。だから苦はないかと思いきや、そうでもなかった。

とある日の中学の合唱コンクールの練習中。その日も真面目に練習に取り組んでいたものの、クラス全体、特に男子は集中していなく、音楽の先生も注意しながら授業を進行するが一向に収まらない。ついに先生の怒りが爆発し、クラス全体がお叱りを受けた後先生は準備室にこもってしまった。
男声のパートリーダーであった僕は、ここで泣き出してしまった。
それは責任感からくるものか、普段温厚な先生(男)が怒ってびっくりしたのか、分からない。どっちもかもしれない。とにかく受けた言葉をそのまま吸収した僕はその場で泣くことしかできなかった。
その後、クラスの男子全員で準備室まで謝りに行ってそこでもお叱りを受け、そのうち授業も終わったが、号令の後先生に自分だけ優しい声で呼び止められた。そこでもメソメソしていたため内容はほぼ覚えていないが、自分への慰めの言葉を言われたのち、最後が「ありがとう」で締めくくられたことだけは覚えている。いえ、リーダーとしての動きを分からず統率の意志を持てなかったことに自分の落ち度がありました、なんて今の自分なら言いそうだが、巧く喋れない当時の自分はただ最後の言葉を心に強く受け止め、音楽室を後にした。
そしてこの一連の出来事は今も印象に残る出来事としてここに書いているように、僕の中にじんわりと温かい感情を残した。


~高校から大学中期まで~

中学を卒業し、高校ではわりと話して楽しいクラスメイトに恵まれたりした中、大学受験を経て僕は晴れて大学生になった。(高校生活はそこまで困らなかったのでエピソードは省略)大学生になってすぐ、僕はとある部活から熱烈な勧誘を受ける。

そこは武道系の部活であり、体験に行ってみれば演武の途中にバク宙などの技も入るという目を見張るものであった。しかし、自分が真に魅力を感じたのはそこではなく、そのあとに行われた夜ご飯会で部活生らが話す部活に入って良かった体験の話、さらには体験に来た自分たちの立場に合わせてたくさん話を広げてくださる姿だった。
この部活に入れば何か得られるものがある、そう思った僕は数多の熟考の末、この部活に入ることを決めた。

週4で通うのもあり体は疲弊するこの部活において、大学1~3年生の間それでも続けられたのは、部活の先輩方の指導や、部活を仕切る監督の武道と人間関係に基づく論理的な指示があってのことであり、それはどうやら自分の性に合っていたからだと思う。武道館でないところを借りて、2時間ほどのミーティングもあったりした。喋るのが苦手な自分でも、自分の意志を持ってどうにか伝えようとする意志はまあ鍛えられたんではないかと思う。
ほどなくして、3年の春から大学の近くに引っ越しをした僕は、なぜかその直後体調を崩して1週間入院するという稀有な体験をするも、ともかく、上の先輩がいる間は、苦しいことはありつつも、前向きな心を忘れられず続けていけた。

問題は、先輩方が4年生の12月に抜け落ち、ついに自分らが最高学年になった3年の冬に起こった。
先輩方の引継ぎを、年間を通して行っていたはずなのに、最高学年を担うという責任感をまるで持てていなかった。中学までの、言いつけを守るだけでまかり通ったあの「リーダー」とは大違いだった。後輩はかわいいが、あまりにも見守る人が多い。後輩の表情がなんか暗ければ、あの時の先輩のように声をかけなければ、でも無駄に気にされたら?なんて考えが堂々巡りする。真のリーダーになれていない自分は、とても歯がゆかった。

さらに問題は襲う。自分は部活生でありながら仮にも理系の学生なので、規定数の単位を取る必要がある。にもかかわらず、部活のあれこれに頭を巡らせていた僕は、学生の本業は勉強であるという前提を忘れ、部活の忙しさに気をやつし単位を取る意識を薄れさせていった。そして遂には、4年次に研究室に入るための単位数を取ることができず、留年を確定させてしまった。残り1単位であった。
ストレートに大学までいった僕は、ここで人生初の「ダブり」を経験する。親に泣いて謝るも、その涙は明日になっても、明後日になっても、止まることはなかった。そんな中でも容赦なく降りかかる最高学年の責任感。頭は過労を迎えていた。

しまいには、目線が上がらず、脳が正常に働かず、寝たきりのじょうたいになってしまった。僕は、鬱になっていた。

行けない、と感じた時、同期の主将(キャプテン)に部活を無期限で休む連絡を取った。でも、寝たきりの状態は変わらない。部屋は散らかったまま、すべての行動がままならない、本当に回復するの?不安は常によぎる。実家にヘルプを出し、引きこもったりもした。ずっと部屋にいる中で、少ない人と連絡を取りつつも頭だけ動かし、今後の自分について考えた。

僕はその年の11月、部活を退部する連絡を取った。
今考えれば、あと1か月いて卒部ということもできた。しかし春あたりからずっと行けないままで卒部してもいいのか?とも微塵ながら思ったし、何より卒部証書という証がなくても、1~3年生の時に先輩方に教えてもらったこと、向上心、最高学年直後に体感したこと、それは残り続けていた。ならばいっそ、次研究室に今度こそ入るための準備期間として頑張っていこう、と一念発起し、部活を辞める決断をした。後悔は、どちらの選択をしてもそれぞれで残るものだろう、と思いながら。
結局、これまでの成績の悪さから希望の研究室にはことごとく入れなかったが、大学のうちにこれまた稀有な体験をしたものだと、その時の自分もしみじみしながら過去を偲んだ。


2.「繊細さ」って、なに?


……いかがでしたか?(何が)(急に敬体になる)

ここまで重苦しい感じの自分の過去をさらけ出してしまいましたが、ここからはもうちょい先を見た明るい話!そう、明るい話!をしていきたいと思います。なんか途中鬱になってましたがあの話は別にこのアドカレのメインじゃないです。いいですね?この先の話と関連付けられる、いわば伏線回収のようなものだと思ってください。(自分で言う)

コホン。

皆さんは、「HSP」というものを知っていますでしょうか?

HSPとはハイリー・センシティブ・パーソンといい、人一倍繊細な心の持ち主で、光や音・においなどに敏感な人のことをいいます。HSPとは、米国の心理学者、エレイン・N・アーロン博士が提唱した概念です。

HSPとは?人一倍敏感で繊細な人が生きやすくなるヒントとは(セルフチェックあり)
https://www.kracie.co.jp/kampo/kampofullife/heart/?p=12278

HSPの人は、感覚的な刺激に対して無意識的・反射的に対応する脳の部位、「扁桃体」の機能が過剰に働きがちで、HSPではない人と比べて刺激に強く反応し、不安や恐怖を感じやすいことが分かっています。

心が疲れやすくて生きづらい…それは「HSP」かもしれません
https://kenko.sawai.co.jp/mental-care/202103.html

上にあるように、HSPは生まれつきの人の特徴であり、それはこの人は生まれてからずっと背が高いわ~or低いわ~みたいなことの脳のつくりバージョンだと思ってください。
その中でもHSPはどんな特徴なのかと言うと、それが一言でいう「繊細」「感受性がある」ということになるわけです。

では、この特性が実際どのように日常生活に影響を及ぼすのでしょうか。
HSPの人にはこんな特徴があるようです。

・生活の急な変化に弱く、動揺してしまう
・たくさんのタスクをこなさなければならなくなると、混乱してしまう
・大きな音や強い光が苦手
・些細なことでも、深く考えすぎてしまう
・芸術に触れると大きく心を動かされる
・忙しくなると、一人で静かに過ごせる刺激の少ない場所にこもりたくなる
・他人の気分に振り回されやすく、対人関係に疲れがち
・小さな音や匂いも気になってしまう
・映画やドラマの暴力的なシーンが苦手

心が疲れやすくて生きづらい…それは「HSP」かもしれません
https://kenko.sawai.co.jp/mental-care/202103.html

これらは、あくまでHSPかどうかをチェックするときの指標のうちの抜粋にすぎませんが、どうやら半分以上当てはまっていれば繊細さんの傾向があるらしいです。あと、あてはまる項目数の多さのみで判別せず、例えば一つの項目に関して度合いが極端に強いと感じたら、その方もHSPかもしれません。(より詳しいチェックを受けたくなった方はこちらからどうぞ。)

……はい、ここまで読んでくださっている方にはお気づきかと思いますが、僕は自分のことをHSPだと思っています
だと思う、という表現にしかならないのは、この概念はお医者さんか誰かに診断されたり、障害として扱われる(自分は障害って名前にあまりいい気を抱かないけれども)物の中に入っていないからです。自分を深掘りした結果「この歌詞私のことだ……」となって今こうやって書いています。
だって現に過去の自分が引っ越したらなんか体調崩してるし他人の気分を察しては妙に疲れてるしたくさんのタスクに混乱しちゃってるし。あと、基本一人になって行動したいですから。ここからは、自分がHSPである前提で話を進めていきとうございます。


では、HSPであると自覚した自分が、その特性についてどう感じ、それとどのように向き合っているのか、ここからは自分の頭の中を整理していきたいと思います。私の頭の中マゲドン

・HSPを自覚したきっかけは?

もともと、自分はHSPという単語を最近まで知ることもなかったのですが(でないと「繊細さを知る」こともない)、初めてその言葉を知ったのは姉からでした。というのは、家族で最初にHSPを自覚したのはうちの姉だったのです。
最初は「ほえ~」って感じで見ていたのですが、それを知っていくうちにこれは自分にも当てはまるな、、となっていったのです。ちなみに自分がそれを自覚したのは昨年末とかです。

・自分の頭にはアンテナがついている

自分の特製を人に説明するとき、たまに使う表現が、この「自分の頭にアンテナがついている感覚」です。斉木楠雄とかではないです。

目の前の見えている情報、聞こえてくる音、置いてあるものとか環境音とかなにもかも、同じ刺激として脳にくるため大変です。そこに本人の意思は介在しません。刺激を無視する、なんてことはできず、脳は自動的に受け止めてしまいます。
例えば何か机にものが置いてあったら「ア!物が置いてあるな」と思います。いつもの風景なのに、目に入ったらそれを感知してしまうのです。周りの些細な音も、気になりだしたら脳の片隅でずっと意識してしまう。

外に出たらもっと大変。いや東京の広告多すぎだろ!すごい数の情報量、いろんなところから出ている音。いっぺん脳が混乱したら行先もなくあてもない歩行が始まってしまいます。だから地図アプリがあるんですね。

……んで、これは僕の推測なのですが、最初の方に書いた赤ちゃんの時大きな声で泣いていたエピソードですが、「周りから受ける刺激が強くてそれで泣いている」のも一理あるんじゃないかと思ってます。自分は赤ちゃんの発達にはてんで詳しくないので、推測だけにとどめておきます。
(どうやらHSPでない方は感じ取る刺激を脳で勝手に強弱をつけているらしいです。それはどういう世界なんでしょうね?)

そしてそのアンテナは、目や耳からの無機質な刺激にとどまらず、自分以外の人間と接するときにも機能します。

「今話してるこの人の目いつもより暗い気がする、どうかしたのかな?」
「同じ室内にいるあの人なんか不機嫌だな、自分なんかやったか?」
「この人は楽しそうだが、この人は無理をして笑っていないか?」

HSPの方は、そういった他人の体の部位や仕草から表情を読み解くのが得意というような言葉で書かれることが多いです。そして、それがネガティブな感情であれば、自分が関与していないかと不安になることがあります。一日やり取りする人が多ければ、それだけ自分の心が動かされ、さらに外は刺激のある音や広告でいっぱい……家に帰ってみたら、なんか体がぐったりしている。自制していても、連日気をまわしていたらいつかは心が乱れてしまうものです。

・感じ方は人それぞれ

と、ここまで自分の体験談を交えた話をしてきましたが、この「繊細さ」という概念、人によって結構様々だなという印象を受けます。

身近なところで言えば僕の家族。
自分にHSPという概念を(間接的に)教えてくれた僕の姉は、大きな音や鈍い音が苦手でビックリします。また母曰く、「表情にはあまり出ないけど心の中ではめっちゃ気にする」タイプだそうです。で、母親も自身のことを繊細っぽいと明言しているのですが、家に帰ってきて床が掃除されていたらそれに気づくことから、細かい風景の違いを察知する能力に優れていそうです(自分で書いといてなんだがそれは主婦だからでは?とも思う)。
……あぁ、そうだ。母と姉は同じテレビ番組を見ていても思うのですがすごい涙もろいです。僕がうるっとくる内容だったら大概ティッシュを2~3枚かそれ以上とっています。そのたびに僕は「すげえ感受性豊かなんだな」って思います。これは内緒です。

家族以外でも、他の人にそれっぽいな~と勝手ながら感じることがあります(違ったりしてもしなくても失礼に値しそうだから普段は心の中にとどめるのですが)。
例えば街の風景に必要以上に受身になってしまう方、寒暖差が苦手な方、誤字や文章の細かい表現の違いに敏感な方、など。
これらの特徴は、全部自分にはそこまで無い、もしくはあるけどすごく気にするほどでもないかな~というものばかりです。

あと僕は自分の発言に配慮を持たせたいとは常に思いつつも、気が付いたらとっさに配慮に欠けたことを言っていることもあるというお前何なん?的な性格を持っています。
そんな僕が聞き手の方に丁寧に配慮をした発言を常にしている人の発言を聞いたりすると、すげぇ~~~~この配慮は俺にはできねぇ~~~~と心の中で思います。これは純粋な尊敬に値します。

とまあこのように、繊細な部分、感受性が豊かな部分は人によって違うということです。他人とお話をして、ここらへん自分と感じ方やっぱ違うんだな、と感じる瞬間は、なんだかおもしろいものです。

・「繊細さん」のための実用書

このチャプターの最後は本の紹介です。
実はここまで書いたもの(あるいは次のチャプターにも書くこと)の中には、現役カウンセラーの方が出版した本を参考にしたものがあります。この文章は、そこに載っている中でも特に共感できるものをかいつまんだようなものです。
ここには書ききれなかった実用的なアドバイスも、たくさん載っています。
自分繊細っぽいな、妙に疲れてしまってるな、と感じる方がいらっしゃいましたら書店かアマゾンで絶対に買ってください。絶対に買ってください。大事なことなので二度言いましたよ。

こんなこと言ってるけど実はこの本は自分で買ってなくて姉の本棚からにゃんぷぷ……いえネコババして読みました。悪い事するな!

3.おわりに(自分が伝えたいこと)


ここまで書いてきた中で、僕から皆さんにお伝えしたいことがあります。

まずは自分と同じ繊細な心を持ってらっしゃる方々へ向けてなのですが、あまり周りの刺激に受身になる必要はないと思っています。自分にとって刺激を強く受け取ってしまう要素を自分から排除することは決して悪ではありません。

僕はこの性格の方に関して、軒並み受身がちな方が多いと思っています。それは周りから常に過剰な刺激を無意識のうちに受け取ってしまい、それに慣れてしまっているからです。だとすれば、まずは自分にとって不必要かつ比較的容易に取り除ける情報を排除してみましょう。

簡単なものから言えば、音の刺激ですね。はい、これ。

ノイキャン性能のあるイヤンホホは良いですね。もはや生活必需品です。音楽は聴けなくなりますが耳栓も効果的だと思います。

そして視覚ですが、自分は本を読むだけの時やスマホを見るだけだったらあえて眼鏡を外すことをたまにしています。目の前のことしか気にしないのであれば、その他の情報はシャットアウトです。枠の中しか見ない意識付けをするように伊達メガネをする方もいるそうですよ。
自分がしているのはこれくらいですが、触覚、嗅覚、味覚で敏感になっている方も自分なりの対処方法を見つけ、それを実行してみましょう。同じ悩みを持つ方で相談しあうのもアリだし、検索でもいいですね。自分の生きやすさを自分で構築していきましょう。

それからこれは意識的な話にもなるのですが、特に気分でなければ街の雰囲気は無視していいと思います。最近はクリスマス、なんか煌びやかで見渡せば浮足立っている人も見受けられる。ヤダネ~となったならば、答えは一つ。耳にノイキャンイヤホン、目線は目的地の方向か地図アプリ(歩きスマホは危ないからやめよう)。無意識的に気になることがあっても、極力別のことを意識すれば過度に疲れることはありません。
大きな街の雰囲気に同調圧力は存在しません。期間限定の風景だって、言ってしまえば見たい人だけが見ればいい景色です。街のほうから自分に染まれ~染まれ~と言ってるように聞こえるのは自分の中で作り上げられた虚妄の同調圧力ですので今の自分に関係ないことはいったん考えないでおきましょう。

人との関係。これは僕の持論も含んでいるのですが、たいていの人はどうやら皆自分主体に今を生きています。自分の知らないところにその人のコミュニティがあり、それも年月が経てば更新されます。変わらないつながりがあれば、何回か顔を合わせてそれっきりとかもある。要するに、今の関わりたい人間と関わり方を変えながら繋がっています。
感受性のセンサーが働き、なんか自分勝手だな、、という人がいたら、そういう目線を忘れないでおくといいかもしれません。つっても気になるけどね。

具体的なコミュニケーションの場では、その日の気分で発言したり、60%くらいしか意識してない適当なことを発言したりといったことが往々にして起きます。
もしあなたが繊細で、その言葉を100%で受け止めてしまったら……その言葉が自分にとってネガティブなものだったら……
繊細な方は、自分の発言に責任感を持つ素敵な方が多いと思っています。その反面、他人の発言も字義どおりにじんわり受け取ることが多く、疲弊してしまうことも起きるでしょう。そんな時はこのことを思い出してみましょう。
母がある日僕に伝えてくれた言葉があります。「ほかの人思ったより自分の発言意識してない」です。


そして、これからは今読んでくださってるすべての皆様に伝えたいことです。

僕は鬱になり始めたちょっと前、学校の総合安全機構という場所でASD(自閉スペクトラム症)+軽度のADHDの診断を受けたことがあります。そこで同時に紹介されたのが、ASD専用の認知行動療法(「ASDに気づいてケアするプログラム」)を行う機関でした。そこで6回+αにわたるカウンセリングを受け、そこで知ったいろいろな気づきがありました。以下は、そのうちの1つです。

生まれながらの特性、その「あるがまま」を受け入れ、それをとことん大事にしながら生きること。

診断されたときは、その時の心の状態も相まって自分なんて……と思うことが多くありました。自分について回る「障害」を、受身にとらえていたからです。

しかし、それはネガティブなことが影響されやすい人間の脳の機能に侵されていた結果でもあることを知りました。

人は違うということ、またこの診断をされた人にしか無い良さもあることも知りました。
ASDのDはDisorder(障害)のDらしいですが、どうやら自分にしか感じられない良いこともあるようです。

ではHSPはどうでしょう?周りの行動に流されずっと受身になる?相手を慮るあまり自分が優先できずに時には自分を失くしてしまう?悪い刺激も無意識に受け取っちゃうから悪いことだらけ?

僕は繊細の人にしかない大きな強みがあると思っています。
良い刺激をキャッチして、些細なことでも「なんか良いな」と思える。相手の気遣いを気づいて褒めてあげられる。発言に誠実だから、信頼できる人を見分けられる。配慮を心掛けられるから、その部分は目に見えずとも周りの人から評価されているはずです。

僕は、自分が繊細で良かったと思っています。

生まれながらの特性、名前はついていなくともなんか周りはできていて自分にできないことがあって歯がゆいこと、はたまた育ち方や育った環境など、人は各々悩みを持つものだと思います。
僕の想像しえない悩みであれば、月並みのサポートしかできず、それこそ僕はそんな時歯がゆく感じてしまいます。
それでも、考えなくていいことを排除し、自分の褒められたり、嬉しいなと感じたりしたことを思い出しながらそれを大事にして見る世界は、少し違って見えると僕は思います。

生まれながらの、もしくはこれまでの自分を否定せず、良さを見つけて大事に生きる。現に僕は、これを心掛けることで前より心を豊かにできたように思います。
そして、今後心が乱れてしまっても、心が落ち着いてるうちに書いたこのnoteを思い出して、それでも少しでも心を豊かにできるよう、努めていくでしょう。

ここまで僕の文章を読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。

皆様に幸運があらんことを。

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