儀式儀礼

 この世界は物理世界と情報世界の重ね合わせでできている。物理世界とはつまり、物質。事物そのものの世界のことだ。そして、情報世界とは私たちがそれをどう認知し、どう解釈し、そしてどう語るかの世界である。例えるならば、ハードウェア:ソフトウェア。具体:抽象。身体:精神。このような対比と類似するかも知れない。物理:情報。この重ね合わせのうえで我々は生きている。
 科学とは何か。それは物理世界のルールを解き明かし、分析するものである。科学とは物理世界のルール、ひいては神の定めた、変動しないルールを確認する作業だ。そして、そのルールを利用、応用し、新たなものを生み出すのが科学技術である。我々はこの科学技術によって利便を享受し、この文明を謳歌している。
 では情報世界を分析するものは何か。私はそれが人文知であるように思う。つまり、思想、哲学、そして宗教である。情報の世界は様々な観念によって作られている。それら観念をどう認識しているか、どういう意味づけなのかを分析するのが人文知だ。
 そして、物理世界の読み方(科学)にとっての応用が科学技術なのであれば、情報世界の読み方(人文知)の応用はなんなのか、それが私は儀礼儀式であるように思う。ここでいう儀礼儀式は広く捉えていただきたい。例えば政治上の議会や選挙、挨拶、朝礼、握手、クリスマス会、忘年会。そういったものも儀礼に含めて考えたい。そうしたときにまさに儀礼は科学技術のように情報を操作し観念を変更する応用物であると言える。
 我々は認知なしには生活ができない。もし仮にコップをコップだと思えなくなったらどうだろう。ツルツルして透明な不気味な物体。何か窪んでいるが、それは逆さまにすれば盛り上がりでもある。どちらを上にするのが正位置なのかわからない。もしかしたらこれは武器かも知れない。確かにこれで殴ったら痛そうである。
 何故我々がこんな不気味なものを前に平然としていられるか、それはコップをただの物体としてではなくコップと認識しているからだ。認識のおかげで我々は多くの不安を取り除いているのである。
 ではその認識はいかに作られるか。それは使う事によってである。使用することによって、我々はコップを情報世界に作り上げる。確かに危険ではないものとして。
 さらに情報の世界はものだけではなく、関係性もモノ化する。概念である。コップは持ってこいと言われれば持ってくることができる。しかし、「無敵」は持ってくることができるだろうか。「無敵」を半分に切ったり、無敵の上に座ったりできるだろうか。出来るはずがない、物理的に存在しないのだから。それは概念だからである。しかし、我々は物理的に存在しないものに名をつけ、観念の実在を語る。そう、確かに概念も存在するのだ。形を持たないだけである。情報世界は無限の広がりを持ち、無限の軸を持つ。そしてそれは形がないので、科学技術では操作不能なのである。
 それを可能としているのが儀式儀礼なのではないかというのが私の仮説である。
 例えば、わかりやすく葬式を例に出そう。葬式は物理的にはまったくもって意味がない。死者は生き返らないし、合理主義的に考えても恐ろしく不経済である。全くのナンセンスだ。しかし、葬式を行なった人々は多くの場合故人の死を受け入れている。納得するのである。
 それは荘厳な飾りかもしれないし、意味のわからないお経なのかも知れない。そういった象徴、シンボルが情報上にある悲しみという観念の接続を組み替えるのである。
 なぜ我々は行事を行うのか。それは楽しいからだけではないのではないか。楽しめない私は実は儀礼による観念の操作を拒んでいるだけなのではないか。これが私の考えるところである。
 世界を変革させるのは物理的な世界の変更ではなく、儀礼による情報世界の変更なのではないか。
 そして、私は間違った儀礼を行い続けているのではないか、それは変更可能ではないか。そういったことから私は儀礼儀式に興味を持っている。
 ひいては、儀式の構造を取り出し、それを使用して人の観念を操作するようなことが出来ないだろうかと考えている。オリジナル儀式、そんなものが可能なんじゃないか。そんな興味を持っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?