阿部万里江さん「ちんどん屋の響き」邦訳刊行を祝って

 10数年前、初めて阿部さんと下北沢で会ってお話ししたことを今も懐かしく思い出す。米国西海岸で学生生活を送っていた彼女はまだ20代で、かくも爽やかで知的好奇心にみちた若い人が、チンドンや僕らの活動に興味を寄せてくれたことが嬉しかった。
 それから長らく彼女は日本に通ってフィールドワークし続けた。博士論文が仕上がったというだけで凄いと思っていたら、その後まず米国で研究書として刊行された。米国の学会の査読はとても厳しいそうだが、そのような環境で、チンドン研究の本が刊行されただけで感激ものだった。
 本邦ではいまだかつて本格的な研究の対象にはなることのなかったチンドン。裏返すと、日本語ではなぜチンドンは真面目な議論の対象にならなかったのかという問いが出てくる。ともあれ史上初のチンドン研究書はまず米国で英語で刊行され、そしてついにその邦訳が陽の目を見ることになった。阿部さんと、邦訳を担当された輪島裕介さんに万雷の拍手を送りたい。
 さて、チンドン屋という一見、親しみやすそうなテーマで、しかも犬ん子さんの魅力的なイラストにひかれて手に取った読者は、ガチな学術書でもある本書にたじろいでしまうだろうか? しかし、その内容はとても刺激的でスリリングな議論に満ちている。洋楽でも邦楽でもない奇妙な存在のチンドンは、興味深い社会風俗の一つとして、風変りな美学的対象として言及されることもあったが、大方においては「まがい物」「キワモノ」として無視か蔑視の対象だった。
 しかし、例えば細川周平さんのように(記念碑的大著「近代日本の音楽百年」)チンドンこそは、洋楽の起源としての軍楽隊がようやく大衆的な地平に着地したという意味で、洋楽受容の歴史のど真ん中にあるという見方もあるのだ。
 理屈はそうだとしても、ほとんどの人は見て見ぬふりをし続ける奇妙な存在。そこからは逆に、日本において主流であるということの(普段は見えにくい)特性があぶり出されてくるだろう。
 また、著者の分析の手さばきにも注目だ。英語圏でバリバリ鍛えられてきた彼女の本領発揮である。実にさまざまな研究者の学説が参照され、著者の使う比喩でいえば、古今東西の「レンズ」として容赦なく分析が重ねられていく。
 僕は研究者ではないので最近の事情には詳しくないが、サウンド研究のみならず、人類学、社会学、哲学など関連した様々な学者・学説が登場する様はまさに壮観だ。
 アンリ・ルフェーブルなんて懐かしい名前が主役級で出てくるのには驚いた(80年代、よく著書を古本屋で見かけたものだ)が、どうやら英語圏では90年代以降に再評価されてきたらしい。また、近年話題のジュディス・バトラーや、僕も親しみのあるネグリ&ハートなどが、他ならぬチンドン研究に登場してくるのは感慨無量だし、バトラーの概念「構成的外部」を参照しての「他者性」の議論などは実にスリリングだ。
 おそらく近年のサウンド・スタディーズ(音研究)潮流は、この数十年の人文諸学の動向にもリンクしているだろう。近代的な知のあり方への批判的捉え直しは、関係性のありかたの問い直しでもあり、著者が紡ぎあげたチンドンの響きをめぐる言説空間の中で、それが自分の中でどう響いてくるのか、読者も心の耳を澄ませることになるだろう。
 最後に付け加えると、冒頭に披露された、渋谷のスクランブル交差点のエピソードは印象的だ。氾濫する消費主義の表象に圧倒され、「群衆の中の孤独という逆説的な感情」の奥底に達した著者は、その刹那、チンドン通信社の林幸治郎の言葉を思い出し、「個人的疎外感は、実は集団的な社会状況である」という覚醒(ユリイカ!)にいたったという。本書の白眉のひとつといえよう。ここには映像的なポエジーがあり、それが全体の議論と響き合っている。

https://sekaishisosha.jp/book/b621496.html

<付記>
 阿部さんの紹介された「音研究」の最近の動向が、ここしばらくの現代哲学の動向と色々リンクしているようで興味深かった。
 とくに本書で直接言及はされていないが、最近話題の「中動態(middle voice)」の議論が連想され刺激を受けた。 中動態の議論が、哲学サークルの中だけでなく、医療やケアの界隈で共感を集めているというのも興味深い。チンドンの演奏もある意味、ケア的な要素があるかもしれない。そもそも「音楽」自体「本来」ケア的なものだったのを思い出す。

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