人生何があっても好転はする
ぬいぐるみに囲まれて独りぼっち
私が思い出せる1番幼い頃の記憶です。
畳の部屋に大量のぬいぐるみに囲まれて
いつもひとりぼっちで遊んでる
ひとりぼっちに耐えてる子
それが私でした
両親は共働きで、父は美容師、母は会社員でした
家に併設された美容室で父が働いてる間、私は隣の部屋で1人寂しく、ぬいぐるみと遊んでいました
ある日、寂しすぎて頭がおかしくなりそうになり、60センチはあるパンダのぬいぐるみの白い部分を、マジックで塗りつぶしてみよう!と思って、始めて30秒で無理なことに気づき、挫折して悲しくなった記憶があります。
パンダのぬいぐるみさん、ごめんね
そんなこともあり、父も母も心配してたのか、歳の離れた兄弟ができました
しかし、その兄弟に父も母も世話で手一杯になってしまい、私はさらに放置されることになりました
本当に寂しくて、ずっと一人ぼっちに耐えてる感覚は、大人になっても、心の底に重く冷たく黒鉄のように残ってました
両親からの愛情
そんな私でも、両親の愛情はちゃんと受け取っていました
母は、仕事から帰ってくると、必ず抱きしめて、一通り一緒に遊んでくれるんです
今思うと、理不尽な上司や顧客に耐えつつ、かなり疲れて帰ってきて、さらに子供の相手もしてるなんて、本当に頭の下がる思いでいっぱいです。
父も、当時の父親としては珍しく、お風呂に入れたり、食事の用意をしてくれたり、かけてもらった愛情は、ちゃんと覚えています。
そして私は、おしゃべりで生意気な、あー言えばこー言うタイプの可愛くない子に育ちました。
え?
なんでこうなったw
父も母も、何か言えば言い返してくる私に、よく目鯨も立てず、付き合ってくれてたなと思います。
母より父の方が私の世話をしてくれてたと言うか、気持ちに寄り添っていてくれた感覚があります。
父親の仕事がコンプレックスに
しかし、父は美容室をたたみ、ビデオ・DVD販売を始めました。
当時はまだネットは普及しておらず、ビデオやDVDを買うのが主流でした。
もちろん、子供向けのアニメなども売ってましたが、収益のほとんどがエ◯
、A◯でした。
思春期に入りかけてた子供の私には、とてもじゃないけど、友人には言えず、恥ずかしいとさえ思ってしまいました。
それが、コンプレックスとなり、異性とは話せなくなっていきました。
同性と話す時も、私だけなんだか汚れた存在のような気がして、引け目を感じていました。
精神的に支えだった父とも距離を置くようになりました。
しかし、仕事を変えたおかげで収入は倍以上になり、実家を建て直し、中学も私立の中学に入ることになりました。
もちろん父の事業としてやってるので、そこまで毛嫌いする必要はなかったのですが、思春期の娘としては、性産業はちょっときつかったです。
中学受験へ
中学受験をすることになり、小6から塾に通うことになりました。
中学受験をするにしては、塾に通い始めるのが遅いのですが、
私はほぼテスト勉強無しで、塾のTOP10のランキングに載ってしまったので、そこから勉強を舐め出します。
そのまま、あまり勉強せずに受験し、中堅の中学に入りました。
(なんか書いてて申し訳なくなってきました。
授業料払ってるのに勉強しないなんて、ダメな子。。。)
女子校のいじめ
中学に入ってから、いじめにあいました。
靴を隠されたこともあったし、部活でオーケストラに入ってましたが、楽器に傷をつけられたこともありました。
聞こえるように悪口を言われたり、精神的にかなりキツかったのですが、この頃には授業料を払ってもらってるという自覚ができてたので、辞めちゃダメだ「逃げちゃダメだ」と中高の6年間ずっと耐えてました。
周りは女の子だけで、みんなかわいくて頭がいい、明るくて家柄も大企業の娘とか社長の家とか、なのに私はコンプレックスだらけ。おまけにいじめられてて、本当に自己卑下が止まりませんでした。
正直、詳しく書こうと思いましたが、記憶があいまいで思い出そうとしても脳が拒否してて、思い出せませんでした。
嫌な記憶を消そう消そうと必死で脳が活動してるんだと思います。
暗黒の20代の始まり
大学に入り、一人暮らしを始めました。
しかし、幼少期のひとりぼっちだった記憶と、いじめの記憶が、ワンルームの部屋に1人でいると、繰り返し思い出され、精神的に追い詰められ、心が壊れてしまいました。
1人でいるはずなのに、悪口が聞こえる…
「キモイ」
「すっごいブス」
え、今なんか聞こえた。怖い。
気づいたら、眠れなくなり、起きてるその間ずっと自分の悪口が聞こえるようになってました。
辛い…もう静かにして…もう無理…
車を出して自◯しようと彷徨い、ふと、妹に支えてもらったことを思い出して、電話しました
ずっと泣きながらごめんねと言い続ける私に、異変を感じ、妹も泣き出しました
その時は、自◯せず自宅アパートに戻りました
母が迎えに来て、大学を辞め、実家に戻りました。
この頃の記憶もはっきり言って、断片的で覚えてません。
でも、本当に辛かったのは覚えています。
記憶喪失ってこんな感じなんだろうな。
自宅療養へ
汗水垂らして稼いだお金を入学金や授業料、一人暮らしのお金として出してもらったのに、大卒の肩書も取れなかったなんて、両親に申し訳ない
実家で療養してる間、その気持ちで押しつぶされそうでした。
本当は、バリバリ働いて、お金稼いで両親に恩返ししたいとずっと思ってたのに、こんな姿になって本当に情けない。
でも、そんなことよりまず病気を治すのが先決。
残念ながら治ることはないにせよ、症状が出ない状態にならできるので、そこを目指しました。
体重は一気に15キロ増え、肌もボロボロになりました。
でも、必死に薬を飲んで、朝散歩をして筋トレもしました。
なぜそんなに頑張れたかというと、
結婚して自分も家族を持ちたいという夢があったからです
妹と弟が生まれた時、赤ちゃんて本当に可愛いな!言い表せない込み上げてくる嬉しさ、暖かさを覚えていて、
自分の赤ちゃんに会えるのを本当に楽しみにしてました。
たとえ、自分が病気だとしても、容姿が悪くても、私は自分のことを不幸だなんて思わないし、赤ちゃんが不幸になるはずがない、私が守る、と思ってたので、本当に赤ちゃんが欲しかったんです。
夢に向かって一歩ずつ
その時は26歳くらいでしたが、焦っていました
まだ相手もいないし、働けてもいないから、赤ちゃんなんて夢のまた夢だ。
私は、もう病気で無理が効かなくなった身ですが、一歩一歩進もうと決めました。
まずはアルバイトを始めました。
本屋のレジでしたが、お金を数えるのも一苦労、呂律が回らないなど、必死で隠してバイトしてました。
しかし、店長から「来なくていいよ」と言われます。
クビでした。
私はアルバイトもできないのか。
そう絶望しましたが諦めずに次のバイト先を探しました。
開業するきっかけとなったエステコース
接骨院の受付のバイトにつきました。
優しいおじいさんおばあさんが多く、大きな声で言えませんが、リハビリとしては最適な場所だったと思います。
ただ、上司は厳しく、毎日泣いてましたが、なんとか耐えて勤めてました。
そこで、新しくコースを作るということで、受付が簡単なエステをすることになりました。
エステの手技を学んで、エステコースを担当することになります。
患者さんに声をかけて、簡単なエステも受けてもらう、そうやってるうちに、
毎日予約が入って、受付業務とその接骨院の保険とは別に、私だけで10万円の売り上げを上げることとなります。
しかし、厳しい上司は相変わらずで、仕事ができるようになっても、執拗に責めてきました。
飛び出す形で仕事を辞め、起業
上司に耐えきれなくなり、半ば飛び出す形でその接骨院を辞め、エステサロンを起業します。
厳しい上司の元ではもう働きたくない、誰の下にもつきたくないという思いでした。
人間関係も嫌だ、組織に属したくない。
心の底ではそんなふうに思っていて、本当は逃げたかったんです。
その時には主人と出会い、結婚式の予約もしてました。
エステサロンを開業するのに、結婚式の貯めたお金を使ってしまいました。
さらに国庫、公庫からお金を借りてエステを開きました。
借金です。
借金は130万円ほどでしたが、小さなサロンには必要でした。
エステや美容の勉強しかしておらず、セールスは全然わからなかったため、ポータルサイトからの集客頼りで、なかなか利益が出ず、結局、1年でエステをたたんでしまいました。
今思うと、集客してはホームページやポータルサイトの支払いで出ていく、そんな流れでした。
全く、集客・教育・販売の、教育も販売も分かっていませんでした。
さらに、見当違いのコンサルも受けてしまい、売り上げが上がらないのに出費が嵩む事態になっていました。
そりゃ、たたんだ方がいいですね。
借金を返済するだけの日々
残ったのは130万円の借金。
近くのコンビニでまたバイトにもどり、借金を返して行きました。
しかし、常に混んでて忙しい店舗に行ってしまったため、薬を飲んでる私にはスピードがついていけず、高校生のバイトにも馬鹿にされる始末。
容姿のことでどうのこうの言われてしまい、高校時代のいじめられてた記憶が蘇ってしまいました。
その高校生は、私がアイプチなしで二重であることが気に食わなかったようです。
一重でもステキでモテてる人はいると思いますがね。
(というか、今思い返しても業務に関係ないw)
また病気がぶり返してきて、借金あるのに辞める羽目になりました。
主人はがっかりしてましたが、借金を一緒に返してくれました。
夢は叶え続けるもの
こんなふうに書いてて、自分ってダメだなーって思いますが、夢は叶えてこれてます。
結婚もできたし、エステも開けたし、赤ちゃんも産まれた。
それは、主人の出会いから、応援や支えなしでは成し遂げられませんでした。
そう思ったら今度は主人の夢を応援したいんです。
主人は東北出身で、いつかは帰りたい、赤ちゃんが小学校上がる前には、帰って飲食店を経営したいという夢があります。
私は、ここまで応援してくれて、夢を叶えてくれた主人の力になりたいのです。
なかなか赤ちゃんが来なくて、不妊治療も受けました。
それも、主人的には嫌だったと思うけど、付き合ってくれて、今では宝物の赤ちゃんと暮らせてます。
私の心の底の孤独の黒いかたまりは、いつしか溶けてどっかに行ってしまいました。
どんな状況でも、病気になっても、夢を持って諦めないで行動していれば、叶う時が来る。
そう実感しています。
赤ちゃんは今のところ、発育も問題なしで、よく笑う元気な子で助かってます。
私は、主人と赤ちゃんの暖かな太陽でいたいと思っています。
辛い時は寄り添い励まして、一緒に楽しい思い出をたくさん作りたいと、将来を描いています。
私が稼ぐ理由
私がコンテンツ制作しているのは、私のような、半ば人生詰んだ経験のある方を、勇気づけるというか、再生するきっかけ、ヒントになったらいいなと思いながら作っています。
人生何が起こるか分からないっていうのは、一見、『危険はどこにでも潜んでる』ととらえがちですが
人生どんないいことがあるか分からない、ととらえることもできますよね
私は、主人との出会い、赤ちゃんとやっと会えたことで、人生がくるくるくるーっと好転していった感覚があります。
心のどっかにあった孤独感で、20代前半までうまく行きませんでしたが、一歩一歩プラスの方へ舵を切っていくと、
それはやがて大きなプラスのスパイラルとなるんです。
私は、自分の人生をプラスのスパイラルにしただけでなく、私のコンテンツで人のプラスのスパイラルを起こしたいと思っています
ただ生きるだけではもったいない
二回りくらい昔は、食べるために必死で働いてた
その教育を受けてきたから、真面目に仕事して、貯金してってそれが正義みたいになってるけど
今って、そんなに実はひっ迫した世の中じゃない
ある程度の預貯金は必要だけど、全部を切り詰めてまで貯蓄に回すと、本当に仕事のために生きてるだけになってしまう
だけど今って、たくさん楽しいもので世の中溢れてる
楽しいことがないと死んでしまう病
ワンピースのウソップみたいな言い回しですが
みんな誰しもそうだと思います
楽しいことがないと、心が風邪をひくんです
私も病を患った時は、物事を硬く考えすぎていたなと思います
もっと、楽しいことを心から楽しんでいい
罪悪感を感じなくていい
夢だって描いていい
ネガティブなこと、不安を吹き込んでくるメディアや人々は、スルーしていい
こんな私でもできた
当時は妊娠中でしたが、30日で5000円の教材が売れて0→1突破出来ました
その月に、20000円の教材2本と5000円の教材と8000円の教材が売れて、アフィリエイトで30000円獲得できました
そしたら、破水!
予定日より20日早く赤ちゃんが産まれました!!
産後は、なかなかうまく頭が回らず、Twitterの投稿は難しかったので、3ヶ月ほどお休みしてました。
マミーブレイン、産後ボケというのがあるらしいです。
3ヶ月経とうとしてる時に、アフィリエイトを再開したら、2本売れました。
これって「一度覚えれば、ずっと使える技術なんだ」と、再現性も高いと確信しました。
だからこれから一度覚えてしまえば、ずっと使える技をコンテンツにして出していきたいです。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!
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