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「内面的なトラブル/コンプレックスを克服していく過程」

(2022/12/12現在、書き始めて8ヶ月が経とうとしているのにまだ1/10ほどしかかけておらず、このままでは投稿する前に令和が終わってしまうと感じたので、未完成ではありますが公開することにしました。書ける時にぼちぼち更新していきますのでご容赦ください)

【#1 はじめに】

 一番最初の小見出しを「はじめに」とするのは無難であることを選んだ結果のようで、これから述する「思考の言語化」、「思考→文章への発露」をすることを早々に放棄しているような気がしてなりませんが、安易につけた小見出しによって、表明したい内容の輪郭に制約を与えるのを回避したいと思い、見出しの言葉の意味以上の内容を包含する可能性のあるこの見出しにしました。
 このような、「言語化することによって、かえってその言葉が抱いていた感情や内容の輪郭を限定してしまう」問題は、思考の言語化と向き合う人にとって避けては通れない命題なのではないでしょうか。

 余談ですが、ここでの“命題”の使い方は本来の意味、『判断を言語で表したもので、真または偽の性質を持つもの』とは異なります。
 ここでは、『思考を言語化する作業を行うときに向き合わなければならない大切なこと』という意味で命題という語を用いました。
 これは「誤用だ!」と思われるかもしれない(誤用と言われれば誤用である)ですが,上述のように,『言葉が感情の輪郭を限定してしまう』ものであるならば,その言葉の持つ意味や,言葉がそれを受け取った人に与える印象(クオリア?)の限定的な範囲を超えた用い方も可能なのではないか、とも思います。
(もちろんそれには,ある程度の認識の共有が前提として必要ですが。)
 もしその「言葉の意味を超えた認識の共有」の可能性に共感(いわばEmpathy)できたら素敵なことだと思います。

このことは,私が以前に拝聴した『鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイト』の放送において鷲崎さんが仰っていた,

『言語化した瞬間に、それは違うものになってしまうかもしれないから。「今日一日楽しかった」って言っちゃった瞬間に、その日本語の楽しかっただけでは表現できないいろんな感情があったのに、一年後に日記を見直してみたら「楽しかったって書いてあったから楽しかったんだろうな」になっちゃう怖さ』

という言葉が非常に的を得た表現だなと思います。
 安易で不用意な言葉選びをしたせいで、本来抱いていた感情を、似ているようで異なる枠組みに嵌めてしまうことは、不誠実とまではいかないまでも、「ちょっと残念」だと思います。それならむしろ、「敢えて不明瞭なままにして、考察の余地を残す」ことの方が良い気がします。

 という感じで、ここまで1000字ほど長々と書いてきました。私は文才もなければ頭の回転の速さもありません。分かりにくい言い回しや冗長な文章もあるかもしれませんが、もうしばらくお付き合い頂ければありがたいです。

 さて、今回noteを書こうと思ったきっかけは、自分の好きを言葉として目に見える形にしたい、発信したいという気持ちが行動を起こすための閾値を上回ったからだと思います。このnoteを書くことで,誰かの何かを変えたいという思いはありません。また、数千字から数万字を超える文章を書く経験が大学の課題以外でない私が、この文章を書くにあたってこれ以上にないほど言葉を選んで書いた文章を最後まで読んでもらえるという期待もしていません。自己満足の世界に過ぎないかもしれませんが,「自分の内面を客観的に見つめる」という意味でも,思考を言葉として残すことには意味があると思います。

 今回は上田麗奈さんが2021年8月18日にリリースされた,全10曲のフルアルバム,「Nebula」の考察を中心に,誰しもが抱えるコンプレックスやトラウマへの対峙について(対峙というと何か“戦う”ような義務的な息苦しさを感じますね,“向き合い方”とでも表現した方が良いのかもしれません。)色々文章を書いてみようと思います。私は音楽のプロでもなければ考察が得意でもありませんので、とんちんかんなことを書いていたらご容赦ください。
  そんなわけで、完全に言葉にする,感想を述べるというおこがましい事は言わずに,「ギリギリまで言語化する」を目標にしていきたいです。重ね重ねになりますが、ぜひ温かい飲みものでも飲みながら気楽にお付き合いくださると嬉しいです。(私はアイスの実を片手に書いています笑)

(字綺麗ですよね)


【#3 Nebulaのテーマ「挫折から克服」】

 このアルバム「Nebula」の大きなテーマとして、『挫折から克服までの過程』が描かれているとインタビュー記事などでも言われていますが、この“挫折”というのは「自分を嫌悪して(自分を嫌悪するに至った原因となるきっかけがある)、目を背けて現実逃避していたけれど、もたなくなっちゃって、自分自身に助けを求めた結果自身の内面に向き合わざるを得なくなった。」状態が、もう今までの自分ではいられなくなったという「逃避することを望んでいたはずの自分の挫折」だと感じました。
 しかし、挫折というものは必ずしもネガティブなことだけではないはずです。生と死、何かが色づいていくことや実ることが、終わりや結末を迎えるメタファーになっているのと同様に、何かが終わりを迎えることは新しい始まりを予感させるものでもあると思います。
「Nebula」とは「星雲」という意味だそうで、上田さん曰く、

『星雲ってキラキラしているけれど、実際はガスと塵でできていて、逆に光を吸収して真っ暗に見えたりもするそうなんです。そこに二面性みたいなものを感じたんですよね。二面性といっても二重人格みたいな特別なものではなく、みんなが持っているような……例えば「ちょっとイラッとしたけど、今は言わないでおこう」とか、心と体が違う動きをしているような二面性で。私が体験した挫折にもそういうちぐはぐな動きが関係していたりするので、星雲のイメージと重なる気がしたんです。
(全体的に落ち着いた色のアー写ですが、光が差しているのが見えます。)


つまり程度の差こそあれ、誰しもが持っている外面的な私と自己とのギャップを星雲に見立てたのだと思います。このNebulaというアルバムでは、そういった「外面的な私」「取り繕って必死な私」がはじめに描かれ、ありのままの自分を受け入れるまでの過程が経時的に表現されています。このことから、Nebulaを聴く際には1曲目から順番に聞くことがおすすめです。(というか、初見で聴く場合はそうしないと非常に勿体無いです。)

【#4  1曲目:「うつくしいひと」】

 アルバム1曲目の「うつくしいひと」では、上田さんが『“ポジティブな面だけが見えている上田麗奈”をイメージして曲を書いていただきたい。』と作家さんに依頼されていたこともあり、上田さん自身の繊細な部分が反映されているような気がします。アルバムNebulaでは曲順が進むにつれて次第に内省さを増し、精神世界の海に沈んで行きますが、1曲目ではかろうじてまだ陽光の中にいる感覚があります。

 まずイントロですが、ピアノの伴奏を聴いた瞬間に思わず涙が出るような優しさがあります。この曲を聴かれた方々が皆そう感じるかは分かりませんが、言葉では容易に形容できない安堵感を感じると思います。単語で羅列するならば、「許し、受容」でしょうか。内省しすぎて,前も後ろも右も左もわからなくなる感覚,何が正常で異常かがわからなくなる感覚に陥って苦しんでいた自分に向けて、「あなたは間違っていないんだよ」というメッセージをこのイントロからは感じます。

 しかし、曲全体としてはそこまで単純なテイストではありません。歌詞『綺麗なものでいたくて 鏡の奥まで隠れた』にあるように、自分と外界との間で“綺麗な自分“として居続けることを意識するあまりに、内面的な自分が抑圧されている状態に陥っています。その内面的な自分は、積極的な抑圧の対象ではなく、本来大切にするべき愛おしい「自分」だったはずです。

 続く歌詞に『誰かと繋がっている感覚 こわれそうに抱きしめて』とありますが、この誰かとはラスサビ前で出てくる「無垢なあの日のわたし」だと考えられます。周囲からの評価を気にして、綺麗に取り繕わざるを得なくなった自分に追いやられた内側の自分が、逃げ込んだ鏡の奥で出会った感情がまさに、無垢だったあの日の自分を愛おしいと思う気持ちと懐かしさなのです。

そして2番の初め、

「架空の星のように私輝けても こぼれる欠片 剥がれ落ちていく 胸の空洞誰も知らない」

という歌詞からは、たとえ架空の星のように輝けたとしても、それは架空のものに過ぎず(パブリックイメージのわたし)、どれだけ繕っても満たされる感覚はそこにはないという意味を感じます。
 ここで私が不思議に思ったのは「こぼれるのに空洞?」でした。“こぼれる”とは、何かが容器から溢れ出るようなそんなイメージがあり、「抑圧されていた感情や諸々が溢れ出た」からこぼれる欠片と表現したのだと思っていました。しかし、実際は“胸の空洞”と表現されています。もしかすると溢れ出たのは、「取り繕うことで成り立っていた外面的なわたし(の何か)」だったのかもしれません。前述の通り、変化には終わりと始まりがつきものであることから、この歌詞からは今後の変化が予想できます。
 この“こぼれた欠片”という言葉やそれが含む意味は、今後の曲においてもキーワードとなっているように思われるため、改めて後述します。

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