見出し画像

【英雄】ドラガン・ストイコビッチの話~前編~🇷🇸

僕の英雄、それは妖精ドラガン・ストイコビッチである✨

🇷🇸ドラガン・ストイコビッチ🧚‍♂️

1965年3月3日、セルビア第2の都市ニシュ近郊生まれ。
Dragan Stojković
175cm・73kg(今はもうちょっとあると思う)、A型は、自分とほぼ同じの背格好と血液型で、思い入れが深まる。

鈴木ちなみに、モチベーター型の日本人監督である岡田武史・西野朗・手倉森誠・森保一などA型が多いのは興味深い。

ラドニチュキ・ニシュ🇷🇸

14歳の時にFKラドニチュキ・ニシュの下部組織に入団し、16歳でトップチームに昇格。
18歳の時にはじめてユーゴスラビア代表に招集され、フランス戦で初出場してミシェル・プラティニとユニフォーム交換した。
UEFA欧州選手権1984に出場してグループリーグ3戦全敗で敗退、フランス戦では大会最年少得点を記録し、UEFA EURO 2004にてウェイン・ルーニーに更新されるまで破られることはなかった。
同年のロサンゼルスオリンピックでは銅メダルを獲得し、大会中に召集令状が届いたためコソボ自治州に派兵された。
プロサッカー選手として活動する傍ら、地元ニシュの大学で経済学を学んだ。

レッドスター・ベオグラード🇷🇸

1986年にはレッドスター・ベオグラードに移籍し、史上最年少でキャプテンに就任。
ディナモ・ザグレブから移籍してきた若き天才ロベルト・プロシネチュキや古巣のラドニチュキから移籍してきた親友ドラギシャ・ビニッチとともにプルヴァ・リーガを制した。

イビチャ・オシムが監督を務めるユーゴスラビア代表の一員として、1990年に初のFIFAワールドカップに臨んだ。
初戦の相手は西ドイツであったが、ローター・マテウスに完璧に封じられ、続くコロンビア戦やUAE戦でも本領を発揮するには至らなかったが、決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では直接フリーキックの得点を含む2得点を決め、ガゼッタ・デッロ・スポルト紙の採点で8.5の高評価を受けた。
ディエゴ・マラドーナとの背番号10対決となった準々決勝のアルゼンチン戦はPK戦までもつれたが、その1番手として蹴ったキックを失敗し、そのまま敗れて大会を後にした。

この1990年イタリア大会こそ、僕がリアタイムで見た、初めてのワールドカップ。
伝説のピタ止めシュートと芸術的軌道のFK、あれこそがドラガン・ストイコビッチとの出会いであったのだ🇮🇹


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?