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【英雄】ドラガン・ストイコビッチの話~次編~🇷🇸

英雄の話の続き、
キャリアの説明。

🇫🇷オリンピック・マルセイユ

FIFAワールドカップ前の1990年1月、フランス・ディヴィジョン・アン2連覇中のオリンピック・マルセイユと移籍金500万ポンドで契約を結んだ。
当時のユーゴスラビアでは26歳以下の選手は海外移籍することが許されていなかったが、特例で移籍が認められた。
フランス代表のジャン=ピエール・パパンエリック・カントナ、イングランド代表のクリス・ワドル、ガーナ代表のアベディ・ペレなど名選手が揃う中で背番号10を与えられたが、1990-91シーズン開幕早々に左膝を負傷し、シーズンの大半を棒に振った。

🇮🇹エラス・ヴェローナ

1991-92シーズンは、セリエAの古豪エラス・ヴェローナFCにレンタル移籍、怪我の影響もあり多くの試合を欠場したが、リーグ後半戦は出場機会を多く得て、31節のアスコリ戦でセリエAでのリーグ戦で唯一のゴールを決めた。
この前後には、ACミランデヤン・サビチェビッチと共に注目し、どちらを獲得するか検討していたが、ストイコビッチは怪我を抱えていたことから、サビチェビッチの獲得を選択した。

オリンピック・マルセイユ(第2期)

怪我で離脱中、チームはチャンピオンズリーグ決勝でACミランを破りチームは優勝を果たし、リーグ戦で5連覇を達成したが、バランシエンヌFC監督のボロ・プリモラツマルセイユの八百長を告発し、1994年3月23日に2部降格。
クラブは2年間の契約延長を申し出たが、ストイコビッチはそれを拒否し、半年間という期限を定めてヨーロッパを離れる決断をした。

そして、名古屋へ。

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