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邪馬台国畿内説を考える

邪馬台国の所在地について、日本の考古学界は奈良県の纏向遺跡こそがその場所とする畿内説を有力としている。しかし邪馬台国について書かれた魏志倭人伝の内容からすると怪しい点がいくつかある。

1.登場する国

邪馬台国までの行程

魏志倭人伝には、帯方郡(現在の韓国ソウル付近)から邪馬台国までの行程が書かれている。その中で、不弥国までは九州北部とするのは畿内説も九州説も同じである。ここから畿内説の場合、瀬戸内海もしくは日本海を航行し邪馬台国のある奈良盆地に着くとされる。しかしここで疑問が一つ出てくる。北部九州だけで末盧国、伊都国、奴国、不弥国の四カ国があるのにそこから奈良盆地まで投馬国しかなく途中で通過する国が少なすぎる。
魏の使者が邪馬台国まで行ってないとしても、距離的に省きすぎている。

2.距離

魏志倭人伝では、帯方郡~邪馬台国までの距離が12000里と書かれている。そのうち、朝鮮半島南岸の狗邪韓国まで7000里、北部九州の末盧国まで10000里、そして不弥国までで10700里になるのだがこの時点で全行程の9割ほど費やしており残りの距離を考えた時、畿内に辿り着くことは出来ない。

3.邪馬台国の地勢

邪馬台国の周辺についての記述では、東に海がありそこを渡るとまた倭人の土地があると書かれている。邪馬台国が九州にあれば、東の土地は中国地方、四国地方と想定できるのだが、畿内説では推定できる地域が無い。一部論者の間では、東の海を伊勢湾もしくは琵琶湖とする主張もあるが、海を渡らなくても行ける土地をわざわざ渡ること前提の書き方をするだろうか。

4.狗奴国の位置

狗奴国は邪馬台国の南にある国とされている。そして、両国は仲が悪く度々戦いになっており魏に助力を求めている。九州説なら、文章そのまま九州南部にあったと推定できるが畿内説の場合、邪馬台国は日本の西半分を支配していることになるので、力関係的に九州南部の狗奴国との戦いで魏に助力を求める必要があったのだろうか。また、畿内説では狗奴国は東日本を支配する主張がされているが、その場合3世紀前半の段階で日本は源平合戦のような戦いをしていたことになる。

はっきり言って、邪馬台国が畿内・奈良盆地にあったと断定する段階に無いと思える。3世紀前半では、邪馬台国は九州にありその後畿内に移ったのならば魏志倭人伝の記述も合うが。そもそも、纏向遺跡=邪馬台国とされたのは同遺跡で見つかった桃の種を放射性炭素年代測定法で調べた結果、2世紀後半から3世紀前半頃のものとされたからだ。
しかし、放射性炭素年代測定法は誤差が指摘されている手法で1000年単位ならまだ良いが、100年単位となると誤差が生じやすい。

今後の遺跡調査に期待と言いたいところだが、魏志倭人伝の記述を無視している現在の考古学界では畿内説から動くことはないだろう。

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