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時折最高:023 ボルサリーノのテーマ - クロード・ボラン - Original Soundtrack

いい曲だなあと今聴き返しても思う。子供の頃、一時この曲に夢中になった時期がある。メロディの軽快さやバックのご機嫌なシロフォンも魅力的だが、多分知らずに魅了されたのはホンキートンク・ピアノの響きだったのではないかと思う。映画は1930年代のフランス、マルセイユを舞台にした若いギャングの成り上がり物語である。ジャン・ポール・ベルモンドとアラン・ドロンの2大スター共演が話題となった。

ところで、この「時折最高」シリーズの候補曲を検討している時に、ふと「思い出補正」ということが頭をよぎった。特に映画やTV番組主題歌に顕著だと思うが、その頃の思い出が加算されるが故に、自分にとって思い入れが深い一曲となり、評価を上乗せしてしまっているのではないか、という素朴な疑問だ。

思い出補正はやっかいだ。例えばロックバンドについて考えてみよう。自分がコンサートを見に行ったことがあったりすると、その時期が特別なものになったりしないだろうか? 若い頃に熱中したバンドについて、ついつい神格化してはいないだろうか? 年寄りと話をすると顕著にジェネレーション・ギャップが現れる話題であろう。

ある程度年齢が進むと、新しい音楽を受け付けなくなる、という説もあるそうだ。音楽を快楽をもたらす娯楽としてとらえるなら、快楽に繋がる回路を一度強固に形成してしまうと、脳内の仕組みが切り替わらなくなってしまうのかも知れない。けれど考えてみれば奇妙でもある。音楽経験が増えれば、徐々に守備範囲が広がるのが本当ではないだろうか? それまで分からなかったものが分かるようになる、というのが一般的な趣味の嵩じ方ではないか。

話変わって、特に映画音楽やポピュラー音楽では「オリジナル版」「オリジナル演奏」「オリジナルバージョン」といった概念が強く存在する。オリジナル・サウンドトラックという用語自体がそれだ。楽曲が同一かどうか以上に、同じ演奏であること、同じ響きであることを求める要求である。この概念は、おそらく録音技術発展以前には存在しなかったはずだと思う。

なんとなく唐沢なをきのマンガで読んだような曖昧な記憶があるのだが、何かの特撮主題歌のレコードをねだって親が買ってくれたら、演奏がTVのものと違う!!! これじゃない!!!、と愕然とする場面(笑)。特撮あるある物語だ(笑)。主題歌ものって、昔は録り直したり、別の歌手が歌っているバージョン、なんてのがよくあったのだ。すでに記憶に焼き付いている演奏・音を求めるのだから、質感が同一であることが何より重要なのである。よく分かる。

こんな事々をつらつら思いながら、ボルサリーノのカバー演奏を確認してみた。果たして演奏が変わるとどのくらい曲から受ける印象・感動は変わるのか?

ヘンリー・マンシーニ • Mancini Plays the Theme from "Love Story" • 1970

ヘンリー・マンシーニオーケストラだろうから、演奏の完成度は高い。テンポが速いのとストリングス、コーラスの追加、そしてメインメロディを奏でるのがサックス他の管楽器、という点が異なる。しかしこれでギャング映画としての怪しい悪さは感じられないだろう。

ニニ・ロッソ • I Successi in Movies • 2013

若干テンポが速い。またトランペット奏者のバージョンだから、メイン楽器が異なる。それ以外はシロフォン、ピアノなどの質感はかなりオリジナルに近い。

Borsalino (Remasterisé En 2011)フランク・プゥルセル • Amour, danse et violons n°35 • 2011

一気にムード音楽っぽくなった。これは何よりアレンジの差だろう。

ボルサリーノ(映画「ボルサリーノ」から) · Branon Strings Orchestra

これは! メインメロディ以外はかなりオリジナルに雰囲気が近い。
オリジナル・サウンドトラックでは冒頭ちょっと怪しい、やや安っぽい電子楽器らしき音が被さり、それが独特の雰囲気を出しているのだが、それがないくらいだ。ピアノもホンキートンクの響きがする。

Borsalino クロード・ボリング、Fabrice Eulry • Jeu double • 2010

作曲者によるライブソロ演奏。かなり自由なアレンジで、同じなのはピアノの響きだけなのだが・・・。

Borsalino (Instrumental) Claude Bolling • The Best Of Claude Bolling (Instrumental) • 1975

これまた作曲者による再録音。テンポがかなり速い。またアレンジもかなり異なる。ピアノの響きだけは当然ながらオリジナルにそっくり(笑)。

さて、実はいろいろ探している内に、映画自体のオープニングシーンを見つけた。アラン・ドロン(ロッコ役)が出所し、迎えに来た仲間の車に乗る。着替えたアラン・ドロンが別の場所で車から降りる、というシーケンス。

こうして並べてみると、古い車の走る速度、ギャングが横行する街の雰囲気、暴力で解決する男達の物語、といった様々な要素と曲のアレンジ・演奏が噛み合っていたのがオリジナル版なのだろう。

映画から切り離せば別アレンジでも魅惑的なメロディではある。
しかしもともと実現したかった雰囲気は、やはりサントラ盤が一番なんだろう。

実はこうした曲自体と演奏、という問題が顕著なのは、クラシックなのだ。録音技術が無かった頃には、作曲家の指示は楽譜上でしか行えなかった。しかし作曲家と直に接することの出来た指揮者や演奏家は、作曲家の意図をなぞることが出来ていたと思われる。だから巨匠と云われる指揮者と、新しい時代の指揮者の間には断絶がある。オリジナル版が存在しない、クラシックならではの問題だろう。

けれど例外はあり、ストラヴィンスキーやプロコフィエフは録音を残せた作曲家の最初期に含まれる。彼らが自らの指揮や演奏で残したバージョンは、ある意味オリジナルではないのだろうか?

こんなことを考えてみるのが面白く感じる方があれば、お勧めしたいのが以下の書籍。

この2冊、クラシック中心に話が進むとは言え、どんなジャンルのリスナーであっても興味深く感じるだろう考察に満ちている。何度読み返しても面白い。

時折最高シリーズに映画・TVの主題歌を選ぶことについて考え始めたら、いろいろ収拾が付かなくなってしまったが、「思い出補正」や「オリジナル版信仰」については、多分これからも折に触れ悩み続ける予感がする。

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