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島袋先生新作読切は、アツい所信表明だったのかもしれない【『ヤバイ』】

こんばんは。
岡山ディヴィジョンです。

8月14日(月)に、島袋光年先生の新作読切漫画「ヤバイ」が公開されましたね!

本noteでは、私なりに感じたことをまとめてみようと思います。
もちろんネタバレ全開です!
このnoteを読みに来ている人でそんな人はいないと思いますが、まだ『ヤバイ』という作品を読んでいない方がおられましたら、早急に読んでから戻ってきてください!

それではいきましょう~


1.“情熱”と“理性”のバランスが凄い

この作品の感想をざっと見ていると、ポジティブに捉えた人、ネガティブに捉えた人が共通して、「いまいちよく分からない」「勢いに押し切られた」というようなことを口にしていました。

確かに、本作はかなり勢いに頼った部分があって、そこが好き嫌い分かれるポイントかもしれませんね。

ですが本作は、実は“情熱”と“理性”のバランスを上手くとっているのではないか、と私は考えています。島袋先生の滾るような情熱を、漫画として下支えする“理性”の存在を感じたわけですね。

①「問題文のない種明かし」の構造

そもそも本作は、「問題文のない種明かし」のような構造になっています。中盤あたりで唐突に明かされる「人類大量削減計画」や、謝花桃多武じゃばなももたぶの真の目的である「衆生の救済」は、読切であることを加味しても唐突に明かされた感が否めませんね。

話の流れがいまいち呑み込めなかった、と感じた人の大半は、そうした「問題文の欠落」による唐突感が喉に引っかかったのではないかと思います。

長編漫画などでそうした「問題文」として提示されるのが、「エピソード」です。
特に謝花の真の目的については、

「彼がどのようにして音楽に目覚め」
「どのようにして《ザ・ヤバイ》を結成し」
「どのような悩みや葛藤を乗り越え」
「どのようにしてファンを獲得していったのか」

といったエピソードが前振りとして存在していれば、きっと大いに驚けたでしょうし、逆に納得もできたかもしれません。
そうしたエピソードが欠落していることによって、真の目的が提示されても驚いたり納得したり反発したりといった反応が生まれづらく、「なんだかよく分からなかったなあ」という感想に落ち着いてしまうのだと思います。

しかしそれは、読切サイズに収めるため致し方なかった部分であると思います。
そして同時に、あまりに多様なエピソードを盛り込みすぎると、本作最大の魅力である「勢い」は殺されてしまい、中途半端な作品になってしまっていたかも知れません。

だからこそ、本作には「必要最低限」かつ物語をしっかりと下支えしてくれるエピソードが、極めて理性的に描かれていたのだと思います。

それが、「裁判長」の存在です。

②「裁判長」が負っていた3つの役割

本作で唯一描かれていたエピソードが、「裁判長」についてです。

ジョン・コインブラ・スズキ・マッカートニー裁判長は、政府の手先となって謝花に死刑判決を言い渡した人物でしたが、実は謝花と幼少の頃に出会っていた“ファン”の1人でもあり、「人類大量削減計画」の先鋒であると思われていましたが謝花の計画を手助けする存在でもありました(情報量多過ぎ)。
そんな彼は、作中で3つの役割を負っています。

1つ目は、「種明かしの語り部」。
先述したように、本作のドラマは「種明かし」によって作られていますが、その語り部となったのは、「長官」と「裁判長」の会話シーン。特に、裁判長が自身のルーツを明かす場面から、謝花の計画もクライマックスに突入しています。

2つ目は、「ファンの代表者」。
本作は冒頭から全人類(と言って良いほどの人数)が、《ザ・ヤバイ》の熱烈なファンであり、彼らの口から《ザ・ヤバイ》に対する想いが語られる場面はありませんでした。そう、「裁判長」の述懐シーンを除いては。

3つ目は、「ドラマの総括としての存在」。
ラストシーンに描かれる親子のうち、子供の姿が幼年期の裁判長と重なります。そのおかげで、ラストの少年がこれからどのように生きていくのか、どんな未来が待っているのかに思いを馳せること自体が、物語を総括する機能を果たしてくれます。そうした、ドラマの総括を果たすための存在として、裁判長は居てくれます。

こうした必要最低限のエピソード、役割が、「裁判長」によって保証されていることにより、確かに勢いに任せたように見える『ヤバイ』という作品を“理性”によって下支えしていることが分かると思います。

余談ですが、裁判長は「少年時代」と「大人時代」を描き分けられた数少ない人物です。
そんな彼のデザインに、「目立つ場所のほくろ」という記号を盛り込むことで、読者がキャラを把握しやすいようにしてくれているところを見て、島袋光年先生の、勢いだけではない確かな「技術」には惚れ惚れしてしまいました。
漫画が上手い!(当たり前だろ)

以上のことから、本作は大量の“情熱”と、それを確かに下支えしている“理性”が、奇跡的なバランスで配合されていることが分かります。

2.ラストシーンは島袋先生の「所信表明」だった?

①母親のセリフ

本作のラストシーンが悲劇的なのか喜劇的なのか、絶望的なのか希望的なのかは受取手によって千差万別です。
例えば地球に残された人類は、その後戦争を起こしてしまっていますし、親子は芋虫のチャーハンという決して豊かではない食生活を送っている背景が示されています。一方で、だからといって絶望的なラストだと断言するのも難しいでしょう。

母親:あの星の名前は「ヤバイ」
母親:遠い昔宇宙一のスーパースターが数億人のファンと一緒に作った星なんだってさ
子供:えーーっ!?
子供:本当のスター作っちゃったの!?ヤバっ!!
母親:「ヤバイ」が飛び立った後地球は戦争が起きて残った人類のほとんどは死んじゃったの…ヤバイでしょ?

島袋光年『ヤバイ』より

ここで注目したいのが、母親の台詞です。

彼女は息子に《ザ・ヤバイ》について語りきかせていますが、《ザ・ヤバイ》が遺したはずの音楽については触れず、彼らの起こした出来事についてのみ言及しています。

これは、彼女らに《ザ・ヤバイ》の音楽が届いていないためだと考えられますね。地球では戦争が起き、音楽を聴く方法が、あるいは音楽という概念そのものも途絶えつつあるのかもしれません。《ザ・ヤバイ》がアーティストであった事実すら、不確かになっているのでしょうか。
ですが重要なのは『音楽の話をしていない』ことではなく、『起こした出来事の話をしている』という点です。

私を含め多くの人は、それがあまり褒められた態度でないと分かりながら、つい作品を見ないままに作者の言動や過去の不祥事の話ばかりをしてしまいます。そうして、手の届く範囲のゴシップの話に、低きに流れてしまうのが人間の性と言ったところでしょうか。

こうした我々の態度に悩むのは、何もアーティストばかりではありません。

きっと、漫画家も同じだと思います。

私はこのシーンにこそ、漫画家・島袋光年先生のメッセージが込められていたと考えています。

②登場人物が体現していたもの

「裁判長」は《ザ・ヤバイ》の大ファンでしたが、最後に「星」にはならず自死の道を選んでしまいました。それは彼が、「かつては作品を愛していたが、今は受け取れなくなってしまった(作者を糾弾するようになってしまった)存在」であったため、すなわち「元ファン」を体現したキャラクターだったからだと思います。
では、あの親子が体現していたものはなんでしょう?

それは、「まだ作品を受け取っていない人」だと考えられます。

漫画家・島袋光年先生は、『世紀末リーダー伝 たけし!』『トリコ』などの大ヒット作品を世に発表しながらも、不祥事件を起こしてしまったり、新連載であった『BUILD KING』が打ち切りになってしまうなど、「届けること」の大変さを身に染みて理解している作家の一人でないかと思います。

謝花が語るように、《ザ・ヤバイ》が信条とするところには「誰一人としてヤバくない奴はいない」というものであり、すなわち彼らの音楽を知らない親子ですらも、《ザ・ヤバイ》にとっては救いたかった存在だったはずですね。
しかし謝花は、そうした人たちを全て救いきることはできませんでした。彼は星になって、新たな音楽を創ることはないからです。

しかし、新たな作品を描くであろう島袋光年先生は違います。

まだ筆をとり続ける島袋先生には、あの親子にだって作品を届けることが出来るはずなのです。

だから、ラストシーンで先生が描きたかったことは、こんなメッセージだったのではないでしょうか?


「今はまだ作品が届いていない人がいるけど、そんな人たちの元に作品を届けて、必ず心を掴んでみせるぞ!」


謝花桃多武は、「ハートは一人ではつくれない。誰かがいて初めて…気持ちが繋がるんだ」と語りました。彼は歌を届けているだけではなくて、歌を通して、「ヤバイ」を通して、双方向に繋がろうとしていたのだと思います。

そしてもちろん、それは島袋先生も同じはず。

私のような島袋作品門外漢も、
この作品を教えてくれた島袋先生ファンの友人も、
不祥事件や打ち切りで離れてしまった元ファンも、
未だ作品が届いていない人たちとも、

先生は繋がろうとしています。

『ヤバイ』を通じて。


愛してるヤバイぜ――
お前達全員
愛してるヤバイ

島袋光年『ヤバイ』より


私の心を震わせた、島袋光年先生へ、そしてこの『ヤバイ』という作品に対して、心からこう言わせてください。

ヤバイ、と。


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