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多種のいるところ

 5月初めの連休を白山麓の本宅で過ごした。鳥の囀りで一日が始まり、田んぼに鷺が降り立ち、庭で蛇や蜥蜴がそろそろと動き、暗くなるにつれカエルの大合唱が大きくなり、暗闇に星が輝く。山沿いのかつては田んぼだったが桜や梅など樹木を植えて休ませてある実家の土地には、木漏れ日を受けて野生のミツバが群生していた。ところどころに十二単(ジュウニヒトエ)の紫色がアクセントを添えている。野生ミツバを摘みながら、じんわりと安らぎを感じた。

 東京を発つ前、誹謗中傷されて凹んでいたが、畑の草取りをしながら昨年のこぼれ種で大きくなったイタリアンパセリやパクチーを発見したり、田んぼでじっと餌を狙う鷺を見たりし、野生ミツバを摘んだりしながら、気持ちが楽になっていった。なぜなのか。植物も動物もそれぞれの仕事をまっとうしている環境にいると、自分のするべき仕事がわかってくるからなのだと思う。誹謗中傷は傷つくけれど、それに囚われている限り、自分のするべき仕事をまっとうすることはできない。カエルは精一杯鳴いているし、野生ミツバは群生地を広げている。それぞれが自分の仕事に精を出している。そういうノンヒューマンのふるまいが私を活気づけてくれた。

 山麓では、人間ならざるものたち(ノンヒューマン)の数が人間の数を優に上回る。自ずと人間はこの土地の一員でしかないという気にさせられる。アルド・レオポルドのいう「土地倫理」である。

 思うに、カエルや鷺や野生ミツバが各々の仕事に専念できるのは、それが可能となる環境があるからだ。田んぼがなくなればカエルはいなくなる。カエルがいない田んぼに鷺は来ない。木漏れ日で適度に湿った場所がなくなれば野生ミツバは姿を消すだろう。多種のいる環境とは、多種・他種が各々の仕事をおこなうことのできる環境にほかならない。生物多様性とはつまりそういうことだ。

 生きものたちがそれぞれ責任をまっとうしているように、私も大学人として自分のすべき仕事をしよう。この場合の仕事とは、目先の利益や狭い関心で定められたものではなく、もっと広い意味での、ソローが『森の生活』で探究したような「人間」としてすべき仕事である。樹木や動物が自らのすべきことを果たしている様子にソローは着目していた。

 東京に戻り、生物多様性から遠い日常がまた始まった。人間だけで完結している都市の生活では、きっとまた誹謗中傷で落ち込むこともあるだろう。そんなときは近くの緑地を歩きにいくことにしよう。きっと仕事に精を出している他種がいるはずだ。