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「はんぱもの」として全力で生きる

河﨑秋子にハマっている。前回の『肉弾』に続いて、『ともぐい』(新潮社 2023年)を読んだ。帯に「熊文学」と書かれているとおり猟師と熊の死闘が物語を縁どってはいるけれど、熊vs人間、山vs.里といった二項対立図式などどこ吹く風といった趣。圧巻の迫力で、熊も犬も人間も含めて〈いのち〉の罪深さと尊厳が身体にビンビン伝わってくる小説だ。

この小説には、獣の、生身のにおいが充満している。それは、仕留めた動物の肝臓を「食べる」とか、動物同士、人間同士、動物と人間が「まぐわう」といった、自己と他者の境界を曖昧化する描写に特に顕著だ。

加えて、本当は見えているのに見(え)ないことにしている若いーー世間が「盲目」とよぶーー女性「陽子」を配していることで、視覚よりも嗅覚や触覚に訴える表現が多い。視覚優位の感覚をぐらつかせる著者の手法は、日露戦争前後を舞台とするこの作品が、視覚中心主義を特徴とする「近代」に回収されない〈いのち〉を炙り出していることを示唆しているように思えた。

作品中、死に損ない、生き損なっている「はんぱもの」という自己認識がくり返し言及される。山の主たる熊との死闘を完遂できなかった猟師の「熊爪」だけでなく、実の親による虐待の傷を負いつづける前述の陽子、近代化の波にのまれつつ熊爪の世界に惹かれる問屋の店主「良輔」など、多様な登場人物の生き様を読み進めながら、誰もが人としても動物としてもまっとうな生を生き(られ)ていない「はんぱもの」であり、だからこそ「仕方ない」ではなく、全力で生きなければならない、と河﨑文学は言っているように思えた。