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原子力とダイアローグ

日本では「核」(兵器)と「原子力」(発電)は別個のものと捉えられがちだけど、英語では両方ともnuclear。広島で生まれ育ち、福島に暮らす安東量子著『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社、2022年)は、原爆(核兵器)と原発の同じ根っこであるnuclearという問題を、異文化体験というナラティブに織り込んで、わからないことは多いけど考えつづける、というスタンスで書かれたエッセイだ。

この本の異文化体験には大きく分けて二つのレイヤーがある。一つは、専門家集団の会議に「一般人」である著者が招聘参加するということ。もう一つは、会議期間中のスティーブとボニーの家でのホームステイ。専門家と一般人の対話(のむずかしさ)と、言語や文化の異なる者同士の対話(のもどかしさ)が、絡まりあいながら話が進んでいくところに、ダイアローグに取り組んできた著者の力量がうかがえる。

本書の舞台は、かつて核開発拠点であったハンフォード・サイトの近くのワシントン州リッチランド。核開発に関する用語がバンバン出てくるが、専門的なことが一般読者の腑に落ちるかたちで語られる。ハンフォード・サイトにしても、「マンハッタン計画の一環で作られた核開発拠点で、長崎に投下された原子爆弾ファット・マンの原料のプルトニウムはここで抽出された」という通り一遍の説明ではなく、この場所でもともと暮らしていた先住民のこと、その後入植したもののハンフォード・サイト建設により立ち退きを強いられた住人のことなどにページを割いている。読んでいくうちに、著者の語る人、事象、風景に、自分の感覚が同調していくかのようだった。

また、他者の目を通してものごとを捉えなおす(新たな目で見る)経験もたびたび語られている。原発事故後の福島でダイアローグに従事してきた著者自身が、異国で自らの見方が再調整される経験を綴るというところに、上から目線ではない、読者と横並びの姿勢がうかがえる。

風景描写も興味深い。たとえば、初めて目にするリッチランド郊外の風景を著者はこう語る。

街に近づくにつれ、やがて色は緑一色の農地ばかりになった。灌漑施設が整備されるわずか百年前、この風景は先ほどピクニックした場所と同じように砂漠だったのだ。そして今でも、人為的な散水が止まると、きっとたちまち黄土色に戻ってしまう。こうやって人の力によって風景さえまるきり変えて、国土を作り上げてきたのがアメリカという国なのだろう。一方で、その広大な人工的景観のすぐそばに、人の力が到底及ばない雄大な自然も広がっている。

安東量子『スティーブ&ボニー』p.90

これは私もよく感じることで、西アメリカ(管啓次郎さんの言葉)では一方の極に人工化の推進が、もう一方の極に人間の力が及ばない野生の自然への同調があり、日々その間を行ったり来たりする。裸足の数学者スティーブが荒野をこよなく愛するというところにも、人工と野生のスペクトラムを抱いたアメリカ性が示唆されている。

本書で一つ気になったのは、舞台であるアメリカ合衆国ワシントン州の東部に広がる乾燥した大地が「砂漠」と表記されていることだ。西アメリカにはdesertとよばれる乾燥した大地が広がり、desertは日本語で「砂漠」と訳されるのが一般的だけど、ネヴァダ州やユタ州で時間を過ごした私には、砂漠というより「荒野」がぴったりな感じがしている。砂漠だと、サハラ砂漠とかゴビ砂漠のようなイメージで、セージブラッシュをはじめ乾燥に強い低木に覆われた西アメリカのdesertとは違うかな、と。砂漠も荒野も、農業や居住に適さない不毛な地とみなされている点では同じだが(役に立たない不毛な地とみなされたから、ハンフォードサイト核施設群や、ネヴァダ核実験場が西アメリカの荒野に置かれた)、言葉の与えるイメージが違うと思う。

ともあれ、本書は問題提起という上から目線ではなく、いくつもの考えるポイントを示している。たとえば本書の最後ーー

不思議なものだ。この土地は、もとは先住民の土地だった。まず、入植者である白人が彼らの土地を奪った。そして、第二次世界大戦が始まり、ハンフォード・サイトの建設にともなって、その入植者たちも国家に土地を奪われた。原子炉操業の過程では、放射性物質が流出し、土地が汚染されたこともある。その場所で、ハンフォード・サイト稼働の原子力業界の末裔であるウォルトさんが畑を耕し、大地とともに生きる暮らしを心から慈しんでいる。

安東量子『スティーブ&ボニー』p.272

加害と被害を截然と分けることのできない生活環境に著者の目は向けられている。だからこそ、分かり合えない相手の立場になって考えてみることから目を背けないのだろう。本書最後の「奪い、奪われ、そのために憎み、戦う。それでも土地を愛することをやめない」という人間の営みへの言及は政治的なきわどさをもつが、ダイアローグはそういうきわどいところで生まれるのだろう。