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恐るべき緑ーーモア・ザン・ヒューマン対談の余白

小林エリカさんとの対談「〈人間以上〉(モア・ザン・ヒューマン)の展望」(2024年4月24日、隣町珈琲)で、時間切れのため話せなかったことを書き留めておきたい。

エリカさんの近著『彼女たちの戦争ーー嵐の中のささやきよ!」が、歴史-history-his storyに埋もれた、あるいは消された、her storyを掘り起こそうとしていることは対談でも述べた。Her storyというよりも、herもtheirも含む、つまりhisではない物語・歴史を体現する28の個人やグループがこの本には登場する。

言い忘れたのは、副題の「嵐の中のささやき」がエスペラント語に由来しているということの意味を考える必要がある、ということだ。エリカさん自身、エスペラント語を学んでいて、どの国にも宗教にも属さないこの人工言語が「希望」を意味していることをご著書で示唆している。「嵐の中のささやき」の嵐とは、戦争だったり全体主義的な熱狂だったりするが、そういう嵐に吹き飛ばされず、あるいは嵐にのみ込まれず、嵐のなかでささやくこと、それは希望という行為であり、それが〈彼女たちの戦争〉なのだ。その意味でこの本は、レベッカ・ソルニット『暗闇の中の希望――語られない歴史、手つかずの可能性』と重なるところがある。

それから、『彼女たちの戦争』全28章中、5つの章が科学者を取り上げているということにも着目したい。その科学者とは、放射能の名付け親でノーベル賞を二度受賞したマリア・スクウォドフスカ=キュリー、パリで物理学を研究した湯浅年子、化学者クララ・イマーヴァール、核分裂を発見したリーゼ・マイトナー、そして数学を究めつつもアインシュタインとの結婚後に研究から離れざるを得なくなったミレヴァ・マリッチ。彼女たちは、国と国との戦争、学術的名誉を争う戦争など、いくつもの戦争の中でささやき続けた。

なかでも考えさせられたのは、クララ・イマーヴァールの章だ。彼女は、フリッツ・ハーバーに惚れ込まれて結婚し、「料理を完璧にこなし、大学で連続講義を行い、男の著作の執筆を助けたが、長男ヘルマンの出産後から、次第に家庭の中に閉じ込められてゆく」(45)。フリッツ・ハーバーは、植物の成長に必要な栄養素である窒素を空気中から直接抽出し、化学肥料の大量生産を可能にした「ハーバー・ボッシュ法」でノーベル賞を受賞した男である。ハーバー・ボッシュ法は、爆薬の大量生産を可能にする技術でもあり、クララ・イマーヴァールは化学者としてその使用に異議を唱える。だが、男にその声は届かない。そして、「男の研究を基に開発された毒ガスは、絶滅収容所で男の同胞であるユダヤ人らを大量虐殺するために使われることになる」(46)。

ハーバー・ボッシュ法って、水俣病の原因企業であるチッソ水俣工場(正確にはその前身である日本窒素肥料株式会社)で使われた方法?と思って、石牟礼道子『苦海浄土』のページをめくってみたら、ハーバー・ボッシュ法ではなく「カザレー法」への言及があった。ちょっと調べてみたところ、日本では特許の関係でハーバー・ボッシュ法は使えなかったとのこと。でも、カザレー法はハーバー・ボッシュ法を基にしているとのことなので、それを媒介にして、クララ・イマーヴァールの章と『苦海浄土』に接点が見えたような気がした。

フリッツ・ハーバーといえば、最近ハマったベンハミン・ラバトゥッツ『恐るべき緑』(松本健二訳、白水社、2024年)にも登場していた。この本の最初の章「プルシアン・ブルー」で、シアン化物の魅惑的な色と毒性、その色に魅せられる絵画界と毒性を利用した戦争が交差して語られ、史上初の毒ガス兵器による攻撃(ベルギーのイーペルという町の近郊)へと話が進むのだが、その攻撃を計画したのがフリッツ・ハーバーである。ラバトゥッツは、彼の最期をこう記している。

フリッツ・ハーバーが死んだときに彼の手元にあったわずかな持ち物のなかに、亡き妻に宛てて書かれた一通の手紙があった。そのなかで彼は耐えがたい罪悪感を覚えていると打ち明けている。だがそれは、彼がかくも多くの人類の死に直接的、間接的に果たした役割のためではなく、空気から窒素を抽出する自らの方法が地球の自然の均衡をあまりにも大きく狂わせてしまった結果、この世界の未来は人類ではなく植物のものになるのではないか、というのもわずか二、三十年で世界の人口が近代以前の水準にまで減少すれば、植物は人類が彼らに遺した過剰な養分を利用して野放図に成長し、地球全体に広がって、ついには地表を完全に覆い尽くし、その恐るべき緑の下であらゆる生命体の息の根を止めてしまうのではないかと恐れていたためであった。

ベンハミン・ラバトゥッツ『恐るべき緑』松本健二訳, 白水社, 2024年, p.32.

今風にいえば、ハーバーは地球システムに介入したことに対して罪悪感を抱いていた。しかしそれは、生命を奪った自らの発明品に対する後悔の念ではなく、自らの発明のために植物が蔓延って人類が滅亡するかもしれないという未来への恐れであった。ここには、人間が支配者ではなくその一部であるというモア・ザン・ヒューマンの感覚が垣間見えるような気がしないでもないが、しかしハーバーの見解はどこまでも人間中心主義的である。人類の未来しか目に入っていない。地球との〈関係〉が欠如しており、地球環境をあくまでも客体としてしかみていない。

ハーバー・ボッシュ法(それに基づく他の方法も含めて)は増え続ける人口を養う食糧生産を可能にした一方、戦争で多くの人の命を奪った。科学は人類の幸福に貢献する一方で、災厄ももたらす、などといって終わらせるべきではない。ではどうすればよいのか。ひとりひとりがそれを考える導きとなるのが文学にほかならない。

対談が行われた4月24日、『思想』2024年5月号巻頭文、現代アラブ文学研究者・岡真理さんによる「ガザは蘇る」が ウェブ公開された<https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/8002>。「人間」としての抵抗について考えさせられる文である。人間であるとはどういうことなのか。数多の文学作品がそこに斬り込んでいる。