ゼリー



 ひと月ほど前に一度手に取った歌集を、買う、買う、と思って出かけた。
 買うなら一度手に取ったのと同じ書店で、と思っていたので、その書店の入っているショッピングモールへと向かう。

 その前に寄り道をして、公園を散歩した。すっかり葉の落ちている木々の、幹の色や模様に目が行く。白くなめらかなその木肌は、雪の混じる風のなか寒々しくもきれいに見えた。
 しんと静まる植物たちのなかで、ぽつりぽつりと咲いている花は、よく目立つ。
 花弁をみっつだけつけて、上に開かず地面に向かって開いている花があった。その茎のしなり具合と花びらの白さから、明かりを思い浮かべた。ぽうっと灯る、手元を照らすような、足元を照らすような、明かり。
 (さぶいさぶい)と、周りには聞こえない、音にはならない息のような呟きを吐きながら歩く。

 書店に着いた。
 いざここにまた来るまで、記憶のなかの映像を何度も再生していた。棚の、一番上の段の、右端。前回そこにその歌集があって、手に取り、同じ場所に差した。
 けれどそこには、目当ての歌集がなかった。
 棚全体の配置が変わっているようで、(それもそうか)と自分の来ない間に流れた時間を思った。当然、売れてしまって今はない可能性もあって、その可能性に思い至ったとき、少し心がざわついた。
 つとめて平気なふりをしながら、棚全体を眺めて、ここに俳句、ここに詩、短歌、短歌は・・・と、本気で探しているような、でも、もしなかったらつらいからと少しためらうような気持ちでいた。
 薄目で、あえてよく見えないようにしていた。
 そのとき、ぱっ、と短歌、いくつかの歌集が目に入ったものの、思っていた背表紙はその瞬間には見えず、仕方ないので目を開き、その段がよく見えるよう少し腰を屈める。
 こうなったらもう見落とさないように、一冊一冊じっと見ていくしかない。
 店内には在庫の有無を確認できる検索用の機械があるし、お店の方に聞いて一緒に探してもらうこともできる。でも今回それらは後回しで、まずは自分の目で見たかった。見つけたかった。
 ちがう、うーん、ないのか…?でも…きっと人気だし、あるはず、…。
 今思えば、歌集のあった場所と、読み心地と、作家の方のお名前は覚えていたけれど、タイトルはあいまいだった。
 だから、はた、と背表紙にそのお名前を見つけたものの、「果たしてこの歌集だったろうか?・・・別の歌集だったろうか」と少し迷ってしまった。
 そうだったような気もするけれど、どうも確信は無く、考えたところでわからなかったので、ひとまず棚から本を抜いた。
 手に乗せて、ぱらぱらとめくってみる。
 〈白夜〉・・・〈白夜〉。
 たまたま開いた別々のページの歌に、〈白夜〉と見つけた。経験したことのない夜を、歌のえがく光景から想像し、その、時の境目の無さや、明るい夜を過ごす淋しさに思いを馳せた。
 言葉だけでしか知らず、現象としてのみ捉えていた事柄が、感情や感覚・・・色や匂いをともなって、少し厚みをもって記憶される。
 いいな、これがもし、探していた歌集でなくっても。
 そう感じながらまた開いた別のページで、


  しどろもどろに季節は光りフローレンス・ピューきららかに太き足首


 「は」となった。この歌は、前も、読んだ。
 胸が覚えている。

 取りこぼしたものを振り返り振り返り生きていて、よろこびもかなしみも同じだけ色濃くなってゆくけれど、こうして生きた先にほんの一瞬、誰かの仕草や、こんなたった一行にぶつかって、「あ」とあらゆることがぐるぐる渦巻き連なり、ほどけて、まっさらになる。
 そうだ、これ。
 …。
 滅多にない、けれど、あちこちにある、そういう兆しを掬って、胸にしまう。
 また忘れてしまうし、この鮮やかさはその瞬間だけのもの。一度胸にしまったものを、自分で取り出したとき、同じ輝きとは限らない。
 でも、また少しだけ歩いてゆける。道標のような、お守りのような、明かりのようなものがあるので。

 ヘクタール、ヘクタール。
 わたしのさびしさは、どんなだろう。
 透明で、ぼわぼわしていて、ちょうど入ってしまえるような大きさで。
 みずみずしく、でも、中に入ってしまうと耳の奥まで水で満ちてしまって、外の音が聞こえない。
 透明だから、外は見えるのだけど。
 きっとそれは、ゼリーのよう。


(大森静佳『ヘクタール』文藝春秋)

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