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エッセイについて


 「エッセイは自慢ばなしだよ」とある時きいて、へぇ、そうかも、と思いながら、そう?とも思った。その、そう?のほうの、気持ちが残ったまま、そのときの心の中で首を傾げた私が残ったまま、今日まできている。季節は少なくともひと巡りしてる。
 エッセイ、と呼ばれるものなのだろう、誰かの日常を切り取った文章や言葉たちを読むのは楽しい。切り取り方も、切り取る部分も、そもそも見てる主体もそれぞれに違う。
 生き方を知りたいから、エッセイを読んでいるような気がする。みんなどんなふうに物事に向かってるのか、知りたい。ざっくりとした方法論じゃなくて、個人が、目の前のことに、どう感じて、何を考えて、選んで、その先をどう生きるのか。
 物語にも、そういう面を求めているところがあって、そうなってくるとそもそも考え方が近しいかどこかしら感じるものがある主人公や登場人物がいないと読んでいけない。
 だからって、自分だけの世界が尖って狭くなっていくわけではなくって、近いと感じていたからこそ違いがあった時にがつんと衝撃がくるし、自分を見つめ直すことになる。あっ、ひょっとして、この考えって、と心拍数が上がってくる。
 自分の話をする、そのときの、話し手と聞き手の見ているところは、きっとちがう。けど、だいたいそうだろうし。自慢ばなしだったとしてそれが話としておもしろかったりほわほわしたりこちらとしても満足できたらそれはいいじゃん、と思う。
 そういえば先の「エッセイは自慢ばなし」というのは確か、エッセイは誰にでも書けるからこそ、名前で読まれたり読まれなかったりする、という話の流れだった。いざ本屋で並んだら、と。で、エッセイは書こうと思えば書ける、きわめて言えば自慢ばなしみたいなものだから、みたいな話だった気がする。で、だから、できれば違うものを作ってみよう…という事だったはず。どんどん記憶があいまいになるけど、この一連の話のなかで強烈に印象に残ってしまったのが「エッセイは自慢ばなし」という自分では思いつかなかった意味づけだった。
 それで、わたしはその時ひとまずエッセイではない何か別のものを作ることにして、今の今まで引っかかり続け、これを書きながらようやっとひとかけら自分がものを読む時間に何をしてるのかつかんで、なーんだ、と思っている。
 なーんだ。エッセイ好きだよ、全部じゃないけど、でもたまには人の話聞きたくなるから、いろんな人が本当に書きたいこと書いてくれたらいいのにな!
 って思ってる。


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