庭の緑


 久しぶりに。



 怒濤だ…とここ数週間思い続けていて、ある日まできてやっと「そうでしかなかった」と思えたけど、最中は「これいつまでこんな感じなんだろうか」「ちゃんと終わるのか、これ」とそわそわしていた。

 終わりの兆しはたぶん、あるものをなくしたことだったと思う。いつもだったら見つかるだろうと思う感じのさがし方をしても見当たらなかったし、見つかるまでさがすというのが今回はちがう気がした。本当に本当にさがせば見つかるような感じはするけど、たぶんそれはするべきじゃなさそう、と思った。


 一日じゅうできるだけのことをやり、夜になってもなんだか眠るのが惜しく、朝が来ればはやく起きて動きだそうとするので、「ええ、もう少し寝ていてもいいのにさ」と頭のすみほうで愚痴っぽくつぶやきながらまた一日を始める…。眠りは浅いような気がするし、それでいて毎日が濃い。濃いからこそある程度の速度で駆け抜けていくのがよかったのかもしれないが、身体が保たないんではないかとヒヤヒヤしていた。


 人に会い、ものを食べ、近いところと遠いところに赴き、大きなものと小さなものを見、しゃべり、黙し。


 吉本ばななさんの『N・P』を読んだ。濃厚なスープ、ただ濃いのではなくてあらゆる具材が溶け合って純粋で劇的なスープをゆっくり、食事の時間いっぱいかけて飲んだ気分。


 ホラー映画とかみたい、と感じた。ほんとうにそう感じた。得体の知れぬ影がずうっと画面を暗くしている感じが。けど、その影をしょっている人たちのことを思い浮かべたら、あんまりこわくなくって。

 そもそもホラー映画を観ないくせに「ホラー映画とかみたい」なんて言っても言葉が軽くなってしまうが、読んでいる最中の心持ちがそうだったのでそうとしか言えない。

 ホラー映画が放つ、「取り込まれたらたいへんなことになる」と、びりびり肌で感じる危うさが、文字から伝わってきた感じ。

 わたしはそれをまともに浴びる自信がない、もともと映像作品自体にちょびっと距離のある人間というのもある、それで映画はジャンルにかかわらず観る機会が少ない。

 これが吉本ばななさんの作品でなかったら読み切れたかしら…と、よくわからない妄想をする。たぶん読み切れていない。10~20作品ほど読んできたから、耐性というか、信頼というかがあったので読めたものの。あとはきっかけとかメンタルの調子にもよるが、今回は勢いでそのへんを乗り切った。


 読み切ってからしばらく経って、読み直す勇気、気力はいまのところないけれど、本とか物語っていうのは、「一度その文字やそこから浮かびあがる光景を通った」ということが大きなことで、たぶんすでにわたしが意識していないところで『N・P』を読む前と読んだ後ではちがっていることがあるのだろうし、やっぱりそういう点において吉本ばななさんの作品がすごくすきだと思う。あんなすごさを伝える仕事ができることに憧れる。



 映画を観ない観ないと言っておきながら、ここ数日…まあ2・3週間くらいのあいだに、2本映画をみた。

 ときどきこうやって観にいけたらいい、と思う。どんなきっかけでもいいから。

 慣れない場所に行ってそわそわどきどきするのも、その時にさっと受け渡してもらったやさしさも、やっぱり慣れなかったりあれこれ考えて作り出した所在のなさと、そんなこと関係なく全部を伝えてくる作品と、ひっくるめて「映画を観にいった」という感じだった。

 もう1回みたいなあ、と心底おもった。



 絵を見に出かける機会も数回あった。ふたつ、別々の展示に、それぞれ2回ずつ訪れた。

 ふたつの展示のどちらにも絵の傍らに詩人の存在があって、そういうあり方に興味をひかれている。

 けどたぶん、本人たちにとっては、気付けばたまたま辿りついていた位置なのではないかなあ、という気がしている。


 ひとりは、今、現役、生きている方で、詩を書かれていて、もうじき詩集も発売される方。その方が、既に亡くなっている画家の方の、没後50年記念の展示の機会に、いくつかの絵に詩や言葉を寄せられていた。

 もうひとりは、100年と少し前に生きていた、…と、あちこちに記録とその人の作った詩が残っているからわかるのだけど、あんまり実感がない、実感があるとすれば残っている言葉からのみ感じられる、そのくらい私からすれば「遠い」人なのだけれど、その人。展示には、同じ時代に生きていた人たちの絵と、その詩人の方が絵や画家に対して残した言葉、絵や画家のことを表した言葉の一部も並んでいた。


 なんらかの作品について、作った人が生きているとか死んでいるとか、その事実自体がなにかを意味することはあんまり考えにくい、そこで価値判断をしたいとはあんまりふだん思ったことがなく、それよりも作品そのものに触れたいだけではある。

 同時に、生死のある人に限らず、「もの」であっても、あらゆる要因で失われてしまう、存在が無くなってしまうと思っているから、それらの作品が現に目の前にあることには本当に驚く。魂をこめるみたいなものなのかもしれない。それを絶やさないようにとしてきた何人もの人間のことを想像して、人間のいとなみが為しうることってほんとうにおもしろくて愛おしいな、と思う。

 今回のわたしみたいに、胸を打たれた何人もの人が、「この作品はのこさなくっちゃ…!」と、持てるあらゆる知識や経験や時間やあれこれを注いで、今に至っているだけなんだと思う。


 そういう作品に触れながら、たまたま残らなかったものたち、どこかにあったはずの何か、に思いを巡らす。

 ○

 どんなに頭で整理したつもりの記憶でも、からだとか肌がおぼえていて、ちゃんと反応する。いやなものはいやだ、いごこちがわるいものはわるい。と。
 なにがそれなのかは普段忘れているけれど、ふとやってきたときに「わーーーーむりだ、これはむり」と逃げ出したくなる。
 ま、その反応こそが免疫というか、わたしがこれから生きていくために起こっているものなので、そのセンサーが働いてよかったなぁとは思う…。
 また新しい大波がやってきたな…と、ちっこいサーフボードを抱きしめながら眺めている状態なので、これも、いつか「あん時の大波は…」と振り返って笑って話せる時を楽しみにして、乗りこなしていきたいです。
 めちゃくちゃこわいけどなぁ!やっぱり。ぶるぶる。

 ○

 自分が今までちょこっとでも触れてきた言語のなかで…中国語でいちばん発音するのに手こずる。四声の感覚がずっとつかめていないし、子音の音のちょっとした違いを区別して音を出せていないんだろうなぁ、と感じる。
 なんせ習っていたのが10年以上前なので…とは思いつつ。その当時もずっと発音が苦手だった…とは思いつつ。中国語はもう一回基礎の基礎からやるのがよさそうだなぁ。
 韓国語は、大学の時に、先生が発音する口元を見ながら発音を真似していたら、それ以前よりかは発音がしやすくなった。いつ口を閉じるとか、どれくらい口を開くとか。
 フランス語はみっちり授業があったので、自覚しているよりも発音のポイントを叩き込まれている感じがする。
 英語は受験での知識が元、のはず。洋楽を歌ったりしているからか、たぶん、発音は悪くないのかなと現在やり取りをしている時の相手の様子で感じている。そういえば「日本語の発音がナチュラルな、母語は日本語ではない方」がちらほらいらっしゃるので、私が英語を話している時、それに近い感じなのかもしれない。
 手話の場合、手の動きがスペル・つづりにあたるとしたら、顔の表情や口の動き、目線、動かす時の手のひらや指先が、今言っている発音にあたるものなのかなぁ、と思う。

 で、発音についての話だけなので、また違う面から見たら、言語の能力の凸凹は変わってくる。
 言語はそもそも、やりとりがベースなので、どれだけ知識があろうと、あとは使わないとな…という感じが最近とてもしている。言語おたくみたいなところがあるので…。
 使えば使うほど自分なりの言葉遣いになっていって、他の人には違ったように伝わったりもするのだけど、それでもそうやって「言葉をなじませていく」「なじんだ言葉をつかってゆく」という変化の過程がすきだなあと思う。
 誰かのそういう言葉に触れられると、うれしい。

 ○

 うわっ、すごい長い。昨日と今日と少し前とでちょこちょこ書きためていたものを一緒にしたものだから、長いな…。
 やっと書けた。また書きます。



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