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Nobody knows ??

Yes nobody know the way it’s gonna be.
誰もみらいどうなるかなんて分からないのさ

イギリスのロックバンドoasisの『stand by me』の歌詞だ。

少年時代よく、分からない事があったら親に聞いていた。

「これなんて読むの?」「あれは誰?」「これなに?」などなど
この辺りの質問は、物事の外延的な説明、すなわち、名前で答えれば良いものばかり。だから、周りの大人も答えやすかっただろう。よく教えてもらった記憶がある。
しかし、「なんで、動物を殺してるのに人は殺してはいけないの?」「どうして僕達は生きているの?」などの問いは、因果関係を答える問いなので、非常に答えるのが難しい。
幼い頃から、友達の母親などにこんな質問をしていた自分は煙たがられていただろう。故に答えてもらった記憶もない。変な子だ。なにせ、満面の笑みで聞いてくるのだから。

たまに芸能人のブログなどを見ていると、昔から、なぜ?なに?癖のある方を見かける。
一定数いるのは確かだが、その数は少ないし大人になるにつれて減っていく。
最近ありがたい事に市民団体や、哲学の授業を学校に取り入れたい教師のコミュニティーからの依頼で哲学ワークショップをさせていただいている。
いつも心がワクワクする。一番楽しんでいるのは私かもしれない。

そんな時、まず私は「哲学とはWhy(なぜ)を見つける練習」として説明する事がある。
Whyを見つけるということは、子供のときはできても大人になってやると煙たがられるので次第にできなくなっていく。

社会は、前提や常識を積み重ねて、〜な程でやっている。〜の程は所詮はフィクションであり本当の理由に基づかない。その総体が文化なのだ。だから、文化には理由がない。

どうしてお辞儀するの?なんで、お相撲さんはふんどし?どうして?どうして、おつかれさまです?と言うの?

文化には理由がない。

あの芸能人もそうして、もうすっかり、なぜなに力を忘れてしまっているだろう。

仕事でなぜなに力を発揮できる空間は限られている。私がやっている音楽や哲学その他もろもろの活動はなぜなに力を伸ばし続けることに適している。特に哲学を研究する空間はなぜなに力がないとやっていけない。ラッキーだ。

子供の心を忘れずにできているのは、この環境のおかげでもある。

ただ、恐ろしいことに。このなぜなに力を全く学問の世界は理解していない。

私が大学院の時専攻であった心理学(他の教科もかなりやっていたが)では、批判的思考という概念の研究をしていた。

簡単に言えば、物事を分析して問う力だ。

ただ現在日本の批判的思考はただの論理的思考だ。ロジカルシンキングだ。

例えば

私はこう思う。なぜならこうだから。証拠はこれで、自分の意見を客観的にみれている。

といった感じだ。日本人が苦手なやつだ。これができる人は批判的思考力が高い、そうでない人は批判的思考が低い。となる。


シャラップ!!

と言いたい気分。

違う!!批判的思考とは前提を疑う力なのだ。

論理、ロジックの前提を疑う力なのだ。

さらにいうと、批判的思考は「見直し的思考」なのだ。
ほんとうにこれはこうなの? と見直す力なのだ。すなわち前提を疑う力なのだが!

ただ、ここで疑問がある。

前提を疑う力は客観的に測定できるのか?

おそらく現代ではNOかもしれない。ゆえに数値で表わせないので数字研究を重んじる心理学では数字に変換しやすい、論理的思考にすり替わってしまう。困ったもんだ。

実はこのことを日本の心理で学会発表したところ、思ったより好評であった。批判的思考を研究する学者もこころのほんの隅っこでは気づいているのだろう。

では

前提を問える能力は、生まれ持った能力なのか?それとも獲得するのか?

生まれつきもったものなのか、そうでないのか。それとも、訓練で鍛えられるものなのだろうか。

次週はそこに深くアクセスしてみたい。

今日は自分がテレビに出ている。変な気分。
この部屋は止まったままなのに。



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