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クリーピー 偽りの隣人

今日紹介する映画は「クリーピー 偽りの隣人」

今回の映画の内容を簡単に説明すると、主人公夫妻が引っ越してきた先の隣の家が実は連続殺人犯の“サイコパス”の家族の家であった。
主人公(西島秀俊)は元警官で今は大学で犯罪心理学を教えている。嫁は竹内結子で専業主婦。隣の“サイコパス”一家は偽りの家族で、家族のお父さん役が香川照之で、昔から隣人を洗脳しては自分の手は汚さず殺す、一家殺人事件が得意な“サイコパス”。
今回も同じように主人公が出勤中に、専業主婦の竹内結子に接近し、竹内結子は洗脳される。
大枠の流れはそのような話です。

この映画の世界で、香川照之(サイコパス)は人間ではない異常な人だ。と描かれます。しかし、実は主人公も犯罪への興味が強すぎて、とある未解決の家族失踪事件の被害者遺族に執拗に聞き込みをして「それでも人間ですか」と言われている。なぜそこまで執拗な聞き込みをしたのか、それは主人公が隣人の香川照之が、家族失踪事件の犯人じゃないかと刑事の勘で疑っていたからでした。家族を守りたい一心で元々学問的な興味で聞き込みをしていたのが、気づけば事件に巻き込まれるような危機感からつい強引で執拗な聞き込みになってしまいます。そのような経緯で、真面目で家族思いの西島は「それでも人間ですか」と言われてしまいます。

被害者遺族からすれば、人が家族を失っているのに、執拗に傷をえぐり返すようなことができる西島は“人間”ではないよう見えたのでしょう。

今回の評論はあえてこの部分について拘ります。最近の日本映画や小説はサイコパスブームと言っていいでしょう。巷ではとにかく大きく倫理や道徳をはみ出した言動をした人をサイコパスと言う傾向があります。浮気をすればサイコパス、虐待をすればサイコパス、おそらく中学生や高校生がサイコパスというワードを使うようになったのはここ数年でしょう。しかし映画の中で「サイコパス 反社会性人格障害」と西島が学術的知識を踏まえて、香川を批判します。しかし、実際サイコパス=反社会性人格障害ではありません。良心の呵責がないことや、人を騙すのがうまい傾向があることがサイコパスの分かりやすい例ですが、

これが生まれつきそうだったのか、環境の中でそうなったのかは分かりません。

さらにいえば、先ほどの被害者遺族からすれば、西島の行動自体がサイコパスのように見えるかもしれません。
ストーリーの後半になると洗脳されている竹内結子は、死体遺棄を手伝ったり、助けにきた夫に注射を打ち込んで眠らし、香川サイドにつくシーンがあります。
もしそのシーンだけを切り取ると、もともとサイコパスとは程遠い良き嫁であった竹内結子はサイコパスだと言われてしまうでしょう。そう「人間ではない」と言われてしまうでしょう。
学問的興味がありすぎて、相手の気持ちをおもんぱかることが出来ずに、人間ではないと言われてしまう。

しかし
知的好奇心は非常に人間を人間たらしめているものです。知的好奇心がなければ人間は学問も勉強も、科学も何も行わないまま、原始時代生活のままでしょう。

今回の西島のように、自分の家族が巻き込まれてしまうという不安から、強引に嫌がる被害者遺族(女性)を押さえつけ、香川の写真を見せつけるなどの行動を起こさせます。

この男を知らないか!?と問いただします。

人間が不安になった時には、他者を思いやる気持ちは余裕はなく、自分のことだけで頭がいっぱいになります。普段ちゃんとしている人だとしてもそのような環境がその人を狂わし、普段ではしないことをやってしまう。このようなケースはよく見られます。進化的に説明すると、人間は不安が必要です。それは、不安があるから準備や計画を立て戦略を練ることができるからです。これは予想しやすいことでしょう。

今回のそのシーンであれば、好奇心と不安という人間のもっとも本性として備わるものが行きすぎてある種の人間史観から外れる。
すなわち「それでも人間か?」という問いは
人間の最も人間らしい本性、もともと人間を人間たらしめているもの性質の過剰によって起こるもので、

人間らしすぎた結果とも言える。それは人間の外や人間の故障でもない。

人間の宇宙のような多様性から生まれる言動を、サイコパス、や、人間ではないと本気で言ってしまう人間はよほど淡白な世界で生きているのだろう。
それは現実ではない。現実の人間は、切り取り方によって時にサイコに見えるし、時には思いやりのある人にもなる。人間の宇宙のような多様性を理解していない。

この映画は極端にバックグラウンドが少ない。香川照之がどうしてそうなったのかもわからない、生まれつきなのか、後天的に環境の中でそうなったのか。
嫁がどのように香川照之に洗脳させられたのか、葛藤はなかったのか?どうして愛しているのに香川照之の言いなりになるのか。
香川照之の家族ごっこをしている娘は何度も死体を遺棄し、転校も繰り返し、あり得ないほどの過酷な環境でありながら、非常に社会に適応的なのだ。そのようなことが可能であるためにはどこかに歪みを何かに昇華する必要があるが、それは描かれない。

ゆえに狂気やサイコパシーの裏側に隠れている、人間の弱さや、心理的葛藤や人生にライトがほぼ当てきれていない。
行動だけで、彼らがお互いをサイコパスや人間ではない。と言い合っているような人間観が、この映画そのものに反映されている。
すなわち、その人間のバックグラウンドは関係ない。目に見える行動こそが大事だ。可視可能性で人間の人格まで断定する表面的な世界になっている。

しかし、矛盾するようだが竹内結子の洗脳された世界での夫西島への愛の描き方は、まるで自分たちが普段思っている愛の形がいかにシュチュエーションに限定されている世界での愛し方なのか、一気に目を覚ませてくれる、いやさらに眠った世界なのか。
さらに最後西島が香川を銃殺し、冷たい平安が訪れる際、竹内結子が夫に抱きつき泣き叫ぶのだが、ここは非常に面白い。むしろこの叫び声の正体をどう味わうかがこの映画の醍醐味ではないだろうか。

したくてしていたわけじゃないが、したくてしていた、けどしたくなかったけど、支配されたかったけど、自分の意思でもあったけど
と、けどのカーニバル。まさに人間の心理の深層にアクセスできるような深みがある。

その叫びから、「けどの15乗」ぐらいは見れる。ぜひ見て欲しい。

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