幸せだけれど、楽しみのない人生

「幸せだけれど、楽しみのない人生」ってよっぽど性根が捻じ曲がっていねぇと発生しないフレーズが頭の中に去来した。

実際、幸せだ。世の中の人が努力しても手に入れられないものが今手元にいっぱいある。なんていうか、私は私が必要とする範囲でそれなりに自由で、そしてそれは、明らかに誰かの思いやり、言い換えればまあ積極的な苦痛によってもたらされている。

大人になったら、誰かのために何かをすることが、喜びになるらしい。普通なら「じゃあ、今度は自分が与える番だね」ってなるはずなんだけど、今一つピンとこない。

子どもにピアノを教えたって、自分がピアノを弾けるようになるわけではないし、発表会用の服を揃えたって、自分が着るわけでもないし。カーテンを洗って、シーツを洗って、どれだけ掃除をしたって、私のアレルギーは治らない。義務だと思うから、やってはいるけど、楽しくない。

自分に対しては、今さら勉強をしたって、今さら働いたって。日焼け止め。ダイエット。美容院。資格試験?今更なあ。頭の中は、何かをする虚しさと、何かをしない言い訳とでいっぱいです。自己愛の方向性がおかしくて、過去の自分を愛しているから、未来の自分に興味が向かないみたい。

小学生だったか、中学生だったか。昔、よくわかんない国からよくわかんない女性が講演にきた。それを聞いて私は「大人になったら、貧しい国の子どもたちに学校を建てたいです」、そんなような感想文を書いた。コストパフォーマンスよく、大勢の人間から感謝されたいという浅ましさは筋金入り。

結局、自分自身が、一番、お金をかけてもらっても、愛情を与えてもらっても、それに報いることのできない、コストパフォーマンスの悪い人間になってしまった。受け取ることにも、心構えというか、最低限の主体性は必要みたい。

こんなふうに、主体性もないのだけれど、受動性もないみたいで、子どもを抱いても、花火が上がっても、今ひとつそれが楽しいとか、美しいとかと思えない。

与えられたものを頑張れない人間は、何やらせてもダメだと思う。物事に飽きる。家庭に飽きる。人生に飽きる。最悪の響き。「飽き」はその性質上繰り返す。

服を買っても着ていく場所がないし、カバンを買ったって、持っていく場所はないし。消費にすら飽き飽きして、深夜のファミレスでひたすらスプーンを磨き上げていたけれど、それもなんだか違うみたい。

そのくせ、何かしたいことがあるだろうとか、何かしなくてはいけないなという焦燥感に襲われる。「あなたは何者かです」「個性を尊重しよう」「自己実現」みたいな教育が悪いんじゃないかと思う。

嫌われる勇気も、エッセンシャル思考も、知っているし持っていると思うけれど、体は全く動かない。何をしたいのか分からない。ただ生かしてもらっている。

自分が幸福であることは知っているのに、「足るを知る」を知らないから、いつも不満か不安がある。だからずっと、自由にできる時間がある、正確には自由にできる時間を、不本意に使ってしまっているという焦燥感に陥りつづけるんだと思う。

不満は体調不良だとか、最低限のコミュニケーションの欠如だとかそのあたりからきていて、不安は停滞感からきているような気がする。

自分は、社会に対して憧憬と憎悪とがないまぜになっているから、どっちへどう転んでも何かしら足りなくなる。怠惰を肯定したいが、今のこの状態が、怠惰を肯定するための過程のような気もする。

こんなことを書いていたら、外で男の人の声がした気がして、包丁を握りしめて玄関に向かって鍵を確認した。壊されたり奪われたりするのは勘弁なのに、どうして今あるものを大切にできないのだろう。

子どもに、11時半まで話しかけないでくれ、そっとしておいてくれ、って言って書いてるのがコレだから、まあほんと最悪に近いと思う。


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