宇宙のせいでバッグを買えない

ブランドバッグを買おうとして、「資本主義の奴隷の鎖自慢!」と宇宙からの声が聞こえてきて買えませんでした。LVMHグループのCEOが確か今年の資産ランキング一位だとかそういうニュースやってたの思い出してヨ。身分不相応とかどんなツラ下げてとか誰のお金でとか、そういうのは関係ないんだ、だって借金してでも買うやつは買うし、盗む奴は盗む。

宇宙にぶっとばないために、この世のリアリティラインというか、どこかに世界の天井を作らなければならないんだけど、自分はどうにもそれを上手く引けないんだな。

世界というのは個人か、家族か、国家か、人類か、宇宙か。時間というのは今か、それとも未来や過去を含むのか。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と聖書を信じるか、それとも「ほんとに!?神の国ある?もしもないならさ、素直にこの世の娯楽を楽しみたいじゃん!」って心に従うか。

毎日が起きて食って寝るだけの人生に価値はないのだろうか。「何をしているか」って、そもそもが幻想なんじゃないか。勉強とか自己投資とか旅行って意味あるの?やればやるだけ、人間の格差を増大させるだけでは?資本主義を構成する何ものにもなりたくないなら、何になればいい?即身仏?っていうか自分は人類を愛しているのか?だったら消費活動で間接的に人類を滅ぼそうぜ!いや、家族のことは愛してないのか?しょうもないもん買う前に、もっとやることあるんじゃないか?

数学だって、範囲が違うと答えが違う。ミクロの理論はマクロに通用しないし、その逆もまた然り。どうにかして、xの範囲を指定しないといけません。

自分含め多くの日本人は多分、「日本」とか「自分と家族の幸福」あたりで自分を中心に柵を設置してると思うのだけれど、これをウッカリ世界まで広げてしまうと、「100万円あったら、バッグを買わずに寄付をするべきでは」「買えば買うほど、世界の人々を苦しめるのでは」とか色々考えてしまって、「平和より、ダイヤモンドがほしい!」と叫びたいたいのに、叫べなくなってしまう。

自分の場合、「日本」あたりで世界を切り取ると、仕事もせずに何やってんだとか、恵まれてるのに何もしてないって焦燥感がひどい。「地球」とかで切り取ると、生きててごめんなさいって感じ。数千年年程度の有史の人類史で切り取ると、宗教の存在感が大きくて辛い。人類がぼくを責めてくる。死ぬ。生物史くらいで切り取ると、たとえば美味しいものを食べているときに、子どもをかわいく思うときに、「遺伝子ありがとう」って思うから、この辺りに調節するようにしたい。地球の歴史で切り取ると死後何も残らないことが怖いし、宇宙の歴史で切り取ると、繰り返し生まれ変わる可能性が怖い。

魂があるのも怖いし、ないのも怖い。各種失敗、勘違い、それに関する言い訳、鼻くそをほじってた記憶とか、卑しいことを考えたその一瞬、誰かの善意に気づかない間抜けさが来世に持ち越されるのが怖い。死んだら終わりなのが怖い。世の中にある各種取り返しのつかないことたちが全部怖い。

世界の天井の設置の仕方をミスると、自分の人生の方向性も決まらないし、子どもの教育にすら支障が出る。しつけも英語も多数派への迎合だ。もしかしたら、教育は虐待で、教養は汚染かもしれない。どこからがどこまでが現実で、最適解はなんなのか。

でも、「神の国」より上に天井がある人たちは、お金を憎み、性行為を憎み、子どもの教育を憎む。現実世界で価値あるものを全て唾棄する。でも、本当に神の国はある?この世の娯楽を楽しまないで大丈夫?普通の恋愛とか、普通の買い物とか、芸術や音楽を見ないで大丈夫?実際、こうしたことで苦しむ宗教2世は多い。

というわけで、皆、小さく小さく自我と共感の範疇を縮小していって、青年期の始まりくらいで、「自分の心の思うままにできれば」っていう最大公約数まで辿り着くんけど(辿りつくよな?)、そこからまた「その上で、何をするか」という考えがニョキニョキっと生えてきて、どうしても自我はぐるぐると外側に向けて延伸していってしまうわけだな。ここまで分かっていても、何かしなくちゃいけなくて、何をしていいのか分かんないのだ。

まあ私は暇なのだ。たとえ消費が労働を作り出そうが、労働が資本主義を加速させようが、その日の飯を得るために働かざるをえない人であったなら、こんなバカなことを考えずにすんだわけだが。

参加してるコミュニティや継続した人間関係があまりなくて、自分の価値観を支えているのが自分だけって状態もよくないと思う。何をしちゃダメなのか、何を買っていいかもわかんないし、しばしば無茶苦茶になる。最悪だ。


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