POCKET MONSTER IS WATCHING YOU

子どもが、「カイデンの進化はダイカイデン」だとか、教えてくれる。ハイハイ、ドリルとオニドリルね。ドードーとドードリオね。とりポケモンのネーミングってどうしてこんなに安易なんだ。あーあ。ポケモンなんて、全然見せてなかったのに。

そういうわけで、最近は家でもアニポケを見るようになった。園の友だちから色々と聞いてくるようで、どのポケモンがどのポケモンに進化するとか、強いとか弱いとかタイプの相性とか、少しずつ詳しくなっている。ママも知っていると嬉しいようで、「これ、昔からあった?」とよく聞いてくる。ミュウツーはミュウの進化か否かで、今みな意見が割れているらしい。

「ポケモンの名前なんか覚えても仕方ないよ」ってつい言いたくなるんだけど、それが間違っているであろうことはなんとなく分かるので、口にしてはいない。

実際、これも一種の教養なんだろう。ポケモンのゲームにせよ、アニメにせよ、誰かがお金のために作り出した作品で、メッセージがこめられていて、消費者がその解釈について語り合う。そう考えれば、例えば絵画とか、音楽とかだって、これがほんの少し高尚になっただけのものなんじゃないか。

いやいや、ならせめて高尚な方を、と思うのだけれど、私たちの住む世界もそこにいる人たちも、そしてもちろん私たちも高尚ではないので、彼は園の仲間達とともに、『アイドル』を歌って踊り、ディズニープリンセスのモチーフとカラーを覚え、ポケモンについて語る。そうして、彼は彼の社会に参加するのだ。

私たちの世代は、「ポケモン151匹」の名前を言える方が多数派な気がする。当時、例の歌は、友だち同士の口伝で広まった。CDを持っている子から、持っていない子へ。歌を覚えた子から、ポケモンを知らない子へ。そうして、ポケモンを知らない子なんていなくなった。共通のコンテンツで、仲良しグループを超えて、世代を超えて、コミュニケーションが取れる。与えられたコンテンツを適切に消費することで、私たちはなんとなく連帯している。

ところで、絵本にはよく「ぞうさん」「キリンさん」「パンダさん」がでてくる。普段生活をしていて、そうそうお目にかかることはない生き物。それなのに、これらを知らないではいられない。ぞうさんはおずおずしていて子ども好きなんて暗黙の了解さえある。

わざわざ動物園を作って、彼らをアフリカから連れてくる。金を払って子どもを動物園につれていく。「ほうら、ぞうさんだよ」なんて言って。実際、私たちはぞうさんが好きだっただろうか。ぞうさんという概念を、動物園ごと消し去ってはいけないものだろうか。役に立たないけれど、覚えなくてはいけないもの。知ってて当然のこと。世の中にはそういうものが多すぎる気もする。ポケモンもまたしかり。

人は今いる場所の言葉しか覚えることはできない。住む場所と、家族と、友人と。それだけではなくて、テレビとかSNSとか、インターネットとか。そういうカオスに疲れ果てちゃって、逃げてしまいたいと思うときもある。でも、こういう誰かから与えられる価値観から離れてしまうと、本当何も残らない。

アイコニックなブランドバッグがもつキャラクター性。それを身につけるのはオシャレと成功のあかし。痩せて引き締まった身体は努力のあかし。職業は?血液型は?推しは?共通言語をできるだけ覚えていく。

無用の用っていうか、語彙そのものは何の役にも立たないけれど、役に立たなければ立たないほど、コミュニケーションの手段たりえるのかもしれない。ポケモンの名前を覚えることは、彼は今彼がいる世界に参戦するための必要条件なのだ。

それにしても、これだけ世界的な存在になっている、ポケットモンスターは果たして何者なのだろう。世界中の子どもたちが、それこそ、絵画も音楽も、他の国の言葉も知らないのに、「ポケモン」だけは知っているのって、何だか恐ろしいことのような気もする。ゾウやキリン、そしてパンダは一応この世に存在するけれど、なんせポケモンはこの世に存在しないのだ。


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