ジモティーと遠ざかる世界平和

made in Myanmarのタグが縫い付けられた安価なロンパース。それをろくに着ることもなく処分することに強い罪悪感がある。これを縫い上げたミャンマーの縫製工場の人たちは、自分の子どもに十分な服を着せてあげられているだろうか。家族と過ごす時間は確保できているのか。そう思って暗澹たる気持ちになる。いつ、そちら側に転落するか分からないという恐怖もある。

こうして私は、最低限の教養と的外れなベクトルにぶっ飛ぶ共感性ゆえに、自分のセロトニン不足に壮大な物語を付与することができます。(それにしても、最近はmade in Chinaを本当に見なくなった。)

買わなければ作らなくてすむ。2枚一組のそれが、1枚で同じ価格だったら、単純に考えれば、労働時間は半分になる。その時間できっとやりたいことがやれたし、行きたい場所に行けた。愛する人たちと過ごせた。

子どもの教育にお金をかけるのも、なんだか変な気がしている。労働者階級が、子どもをちょっといい労働者にするために日々粉骨砕身というのも奇妙なことだ。我々は歯車を産み出す歯車である。

政治も、海外も、資本家も、自分の手の届かないところにあるものだとは分かっている。陰謀論やらデモやらに身を投じるほど馬鹿にもなれない。かといって、黙ってやるべきことを増やすほど勤勉でもない。もしかしたら自分は、自由を使いこなせないことへの言い訳を、生きていることへの罪悪感に転化するのか。(自分には、現状と正反対の価値観を採択する傾向がある。)

ゴミ屋敷が並ぶ通りがある。近所のスーパーマーケットのカートや古い新聞が雨ざらしになっている。住人がコミュニティバスに乗って出掛けていく。目的地はだいたい病院だ。使われる医療費はいくらだろう。体を直して、また、ゴミを買う。(あるいはパクる。)100円均一で、老人が店員に怒鳴り散らしている。若い女の子がしゃがみ込んでフェイクグリーンを陳列している。いい尻だ。

もしかしたら第二子が生まれるかもしれないから、くらいの気持ちでとっておいたおもちゃたち。一年ほど前に、ジモティーでまとめて100円で譲った。(そして、直後に妊娠した。)値段をつけているのは、0円だと実に変な人たちが集まってくるからだ。

また大物を処分したくて、久しぶりにジモティーを覗いたところ、それらの品が一品、一品、丁寧に数百円の値付けをされて再度出品されているのに気がついた。「売れなければ突然処分することもあります!」なんて注意書きまである。一年以上経っているから、転売というには時期が経ち過ぎているけれど、妙なモヤモヤは残る。

売れないなら捨てるというのは、労力を考えると当然だ。だったら、私は、自分で処分しておいた方が良かったかもしれない。写真を撮る時間、やり取りする時間、受け渡しのためのガソリン代もかかる。非生産的な労力が何倍にもなってしまった。

皆のそういう無駄な時間をもって、無償の奉仕をすれば、ゴミも減るし、税金も減るし、多分世界はもう少し平和になるだろう。でも多分無理だ。私も、得する側でいたい。ズルする側でいたい。罪悪感の解消より、楽であることの方を選ぶ。

自分もたくさんの服を持っている。出かけもしないのに、靴はデパートで買う。そのくせ食べ過ぎて太っている。ジムの会費もかかる。じゃあ、私が買わなければ、家族の労働時間が減るのかというとそうでもない。時給制で働くわけではないから、評価されるにはギリギリまで働くしかない。

私みたいな思想を持ったバカが権力を持つと、突然町を焼き、文字を焼き、人間を砂漠で行進させ始めたりするのだと思う。

この感覚は昔からずっとある。少なくとも運転免許を取れる年齢になった時、「車がなければ道路なんて要らないのに」と思ったのを覚えている。お金を払って免許を取って、車を買うことに馬鹿らしさを感じていた。交通事故、大気汚染、温暖化。学校の授業でしつこいほど学ぶのに。そもぞ運転が怖い。「必要ない」と何度かごねたあと、親にお金を出してもらい教習所に通った。

昔ネットで、美術館の一室の真ん中に聳え立つ白い柱の写真を見た。それは脂肪吸引で集められた人間の脂肪を固めたもので、飽食や格差への批判を意図した分かりやすく悪趣味なアートだったけれど、理解はしやすかった。人は、どうして美しくてかけがえのないものを、わざわざ醜いものに変えてしまうのだろう。

ごく稀に、この世の全てのものが自分のために存在していると感じるような時もある。そんな時、私はそれを感謝と感動をもって迎えることができるし、綺麗なものがよく見える。風は心地よくて、焦りも悲しみもない。買いたいだけ買えて楽しいし、食べ物はただ美味しい。

できれば毎日そういう気持ちでいたいと思うのだけれど、イベントでPTAから配られた謎のキーホルダーが、不意の振動で七色に回転しながら輝きだしたせいで眠りを妨げられ、ものごとの優しさを享受する余裕がない。飽きからくる加害者意識も疲労感からくる被害者意識も、一度ハマるとなかなか脱出できない。


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