1989年。平成が始まった年㉚あれから30年・・・

この回からしばらく、ノーマルモード?に戻したく思う。

多少、時系列が前後するかもしれないがご容赦を。

盆休みの6連休を<会社カレンダー>を利用して、私はG県を去り、泉大津港まで愛車で向かい、そこからフェリーで育地に戻った。坪井令和との再会を期したことは、言うまでもない。ただ、彼らにばかりかまけて、家族にあまりかまけなかったことを、今更ながらすまなく思う。<特に妹に>

「名古屋で会いましょう」を袖にされた後も、坪井を忘れることはなかった。ゆえに、事実上の退社前に、暑中見舞で、彼女の勤め先に、盆に帰郷の<使いたくないこの表現>旨を伝えたが、いくら心待ちにしたところで彼女からの返信が来ることはなかった。

地元に戻り、共産党専従のオカダさんを訪ね、ただ酒飲ませてもらったところで、それは当時存在した民青地区委員会の委員長であったハヤシに伝わり、実家の電話に、彼女から電話がかかった。民青の何人かで耶馬渓でキャンプやるんだと。そのお誘いだった。盆が終わり、会社に戻らないで実家にいた時の話だった。<なぜ戻らなかったかは後述する>そして、ハヤシは、坪井に電話を替わった。彼女は、

「連絡がなかった」

「頭数に数えたからね」

などと言った。

一方的な物言い、しかも「連絡してない」などという与太に、違和感を覚えたが・・・返信をどれだけ心待ちにしたと思っているんだ?

とまれ、私は、坪井と「再会」することとなった。様々な「思い」をぶつけようと思っていた・・・

現在は無名の、いちネット作家に過ぎませんが、 書き続けるためにどうか ご支援をどうか よろしくお願いいたします。 a.kimitoki2023@gmail.com