1989年。平成が始まった年㉛あれから30年・・・

忘れもしない、8月19日。某女優の生誕日。違う違う、そんな話じゃない。

酒があるからか、当日は、夕方に実家までハヤシが迎えに来た。Gにいた頃、彼女にも手紙を何通か書いたが、返事が来たことはなかった。耶馬渓に、向かうはずだったが・・・坪井に、思いのたけ、ぶつけるつもりでいた。スケベな思い?無いといえばウソになる。でも、それが通じることはなかった。

二人で耶馬渓に向かったのはよかった。しかし、途中のS町に入ったところで、坪井が反対車線に車を乗り付けて、止まり、ハヤシもそれで停車し、二人で何やら話し始めた。

何やってんだろ?

不可解に思いながら彼女らの様子を見ていたが、しばらくして、ハヤシは行き路を引き返し始めた。はてなが脳裏をめぐり、彼女にきいたところで、坪井らの勤め先の授産施設に行くそうだ。話が違った。耶馬渓のキャンプ場が荒天で使い物にならない、と。山地の天気が変わりやすいことを知らなかったみたいで、そんなことも計算に入れないでキャンププランを組んだ愚かさは度し難かった。

それでも、坪井が与太でも、どこかでツーショット決め込んだなら、救いはあったが、どう見ても、春先に見せた、さも優し気な態度はなかった。出された夕食を食べながら他の、民青の連中と、その彼女の勤める授産施設で話すのだが、藪から棒に

「フクシ大受けるんやろ!」

おいおい、それはちと違うだろう?そのことも話したくて付き合っているのに、高圧的な物言いだった。私の心情を無視していた。だからなのか、消灯時間に、「寝床」に案内されたところで「おやすみ!」と冷たい、高圧的な口調で言うのみで、取りつく島がなかった。当然寝付けるはずはなく、ふて寝していると、悪意みなぎる眼差しで睨みつけるだけだった。どうやらこれが、坪井令和の本性だったみたいだ。まるで支配下に置いた者への対応だった。

あくる朝、朝食を出されたものの、坪井とまともに話す機会はないまま、私はハヤシの車で、授産施設を追い出された。車中でハヤシに、不満を漏らすも、聞く振りをしただけだった。

この時が、坪井令和の、タヌキ顔を見た最後だった。挨拶もなかった。

人の真心を、何とも思わない女だったということに気づいていなかった。

与太者はそんなものだ・・・

今を象徴する与太者は、アベシンゾーだが、いつの日も与太者は与太が多くて、冷酷な点は、共通する。

見抜けなかった、と言ってしまえばそれまでだが、「同志」を欺き嵌める民青同盟員なぞ、露ほどにも思わなかった。そして、この時の成り行きが、後で私の人生を、大きく歪め、狂わせた。

現在は無名の、いちネット作家に過ぎませんが、 書き続けるためにどうか ご支援をどうか よろしくお願いいたします。 a.kimitoki2023@gmail.com