宮原NONO

ALFEEとSMAP、ジャニーズ、ドラマ、マンガ、時々小説。そういうもので私は出来てい…

宮原NONO

ALFEEとSMAP、ジャニーズ、ドラマ、マンガ、時々小説。そういうもので私は出来ています。

最近の記事

〇〇はママの味~

 インターネットの海で思う画像を探すことが多いのだけれど。 まぁだいたい1時間も検索かければドンピシャではなかったとしても、まぁまぁ「こんなかんじ」っていう画像が見つかるもんなんですよ。 でも、この記事のカバー写真は見つからなかったなぁ…  私はちっちゃい頃、ばぁちゃんの家(正しくはじいちゃんの家)に住んでた。はじめはじいちゃん、ばぁちゃん、お母さん、おいちゃん、おばちゃん、私で住んでいた。私が4歳くらいの時おばちゃんが駆け落ちして出て行った。おいちゃんは出て行ったり帰って

    • 母VS~高校編①

       投稿順が入れ替わってしまい(私の都合です)、元々書いてた文章がそぐわなくなってしまいましたが、せっかく書いたのでそのまま行きます(笑) …なんの言い訳やったん…    SNSやってると色んなとこに住んでる人がいるから、こう…季節の変わり目くらいになると「暑い」と「寒い」が入り乱れて、日本って南北に長いんだなぁ…と思いますね。そらアメリカとか中国とかロシアとか…広すぎて違う国くらいの開きがあるんでしょうね…。    さて、毎度おなじみのうちの母ですが。前のお話に出てきた高校で

      • 血のつながり

         私の年齢であれば、早い人は既に何度か相続に関わっている人もいるでしょう。ただ、両親が健在で、祖父母の財産も普通に両親世代が相続していれば、まだ一度も経験してない人もいると思う。  私はちょっと色々複雑…だったのだけれど。  母が私を産んだ後、私の実の父親は「出稼ぎに行く」と言って出たまま行方不明で音信不通であったらしい。仕方なく私を連れて実家に戻り、働いていた。数年後に連絡が来て復縁してくれと言ったらしいけれど、有無を言わさず離婚したらしい。(そりゃそうだな)  私は会

        • 進路について

          ↑この記事内で「こんど書くわ」言うた話を書くね。 けっこう遡るよ。  私がまだ小学生だったころ、懇意にしていた方のご家庭でちょっとゴタゴタがあったの。私の祖母とそこのおばあちゃんが友だちで。家族ぐるみで仲良くしてた。おばあちゃんには一人娘がおって、うちの母と年が近かった。 そしてお孫さんはわたしのひとつ下の男の子だった。仮にAくんとしよう。仲の良い家族だった。  でもある日久しぶりに顔を合わせたらえらい険悪なムードで。「早く宿題しなさい」って言ってるお母さんに向かってAく

        〇〇はママの味~

          受験と学習と指導と

             ※この話は割とセンシティブかも知れない。一応お断りしておくが、30年前の話です。    だいたい中の中くらいの成績で、勉強は好きでも嫌いでもない、ぼーっとしてるタイプだった小学生が、中学から英語が始まるってんで、周りの真似して塾行きだしたら楽しくなっちゃって、楽しみにしてた最初の英語の授業で、担当のM先生はこう言った。 「この単元はちょっと難しいけど、高校に行ったら詳しくやってくれます。入試にも出ないので飛ばしまーす。」 内容は「S+V+O+Hについて」私たちはたいし

          受験と学習と指導と

          しげるくん

            私は産まれた時1550gの超未熟児で、40日間保育器に入っていたそうな。   アルバムの初めの1枚は、ふくふくとした赤ん坊で、満面の笑みの母に抱かれている。   しばらくして、ミルクを飲んでいた私が突然チアノーゼ発作を起こし、驚いた母が病院へ連れていくと大きな病院を紹介され、様々検査を受けた結果、「中隔欠損症」と診断された。ただ、まだ小さすぎて手術も無理だし、診断自体も確定ではなかったらしい。なにせ、聴診器の丸の中に心臓全体がすっぽり収まる小ささ。注意深く、死なせないよ

          シロツメクサの花が咲いたら

            小学生の頃、住んでた町は山や丘がそこかしこにあり、坂道ばっかりだった。一番近い幼稚園は「星の丘幼稚園」だったし、通ってた小学校は「文ヶ丘」っていう丘にあった。そんな街に私たちがいつも遊ぶ「どんぐり山」っていう小高い山…丘…?があった。呼び名の由来はわからない。小路から赤土とでこぼこした石の階段を登ると、子どもの背丈ほどもある草むらと、ススキとセイダカアワダチソウと…しばらくそれらをかきわけるように歩くとだだっ広い原っぱに出る。その原っぱのずっとずっと奥には大きな大きな椿の

          シロツメクサの花が咲いたら

          母VS~中学編

             前回のnote「わたしに言わないで」と似たような話は他にもあって。    中一のある日、早朝から土砂降りで。30~40分掛かる通学なので、傘差してもそりゃあ制服も靴もびちゃびちゃだわ。たまたま(?)叔母からもらった黒いレインコートと紺の長靴があった。今思えば中一にはちょっと大人っぽすぎたか…とはいえ、華美な物でもないし、大丈夫だろう、と母に言われてそれらを身につけ、タオルと替えのソックス、スニーカーをスーパーの袋に入れて学校へ。(もちろん傘も差してたよ!)    昇

          母VS~中学編

          わたしに言わないで

           子どもの頃の「嫌な思い出」ってありますか? 私にはたくさん(!)あります。そのほとんどが母にまつわるエトセトラ(パクった)。  今日はそのうちのひとつをご紹介しよう。とりあえずスカッとはしないのであしからず。  小6の11月に下関から松山に引っ越してきた我が家。これほどまでに違うのか!と連日びっくりしどうしではあった。(標準服とか六年生でもランドセルと黄色い帽子とか集団登校とか学校まで30分かかるとか…)  それはそうなんだけど…たぶん10日も経ってなかったと思うけど、

          わたしに言わないで

          原風景

           私は既に還暦が見えてきている年齢だが、今でも思い出すと涙が出そうになる風景がある。それは例えば今はもう無い祖父母の家の、水屋箪笥(みずやたんす)の開きの中から見た部屋の光景だったり(信じられないと思うが、縦45㎝ほど、横20㎝ほど、奥行き40㎝ほどの小さな開きである。大人になってから改めて見て自分でも信じられなかったが小さなころの私は入れたのだ)、縁側から見た洪水だったりする。    小さいころ住んでいた町は、丘と丘に挟まれたふもとの町で、徒歩で15分ほどで海に出る、そんな