記憶

生きたい。死にたくない。こう思うようになったのは、あの考えが過ってからだ。あれ以来ずっと、私の心に居座り続けている。
夜、寝る前に過った。私が死んだら、私はどうなるのだろう。世界は動き続ける。私が世界から居なくなったことも知らずに無慈悲に呼吸を続ける。それが少し私の心に空虚を創った。世の中では一日に何人もの人達が世界から消えている。しかしその人達は、世界に「記憶」されているのだろうか。私は考える。勿論、周囲の人は「記憶」しているだろう。しかし「記憶」され続けるのか否かは分からない。その周囲の人が世界から居なくなれば、もうその時点でその人達の「記憶」を持つ者は居ないだろう。虚しくなる。自分がやっている事が全て虚無に帰ってしまうのだ。一人の人が人生で積み重ねて0から1に、1から2に3に、と続き積み重ねてきたものが、0になってしまうのだ。世の中の人々の名前や、成し遂げた事を覚えるのは不可能だろう。その不可能な中で「記憶」に定着させるに至った人物達は生き続けている。
今、読者に想像してもらいたい。パッと思いついた偉人は誰だろうか。その思いついた人は何をしたから後世までに、名が知られているのか。その偉人達は、何億人もの中で、ずっと名を轟かせている者ばかりだろう。なぜ轟かせることが出来たのか。それは、世紀の発明?否、人々の心を変えた?否。環境のおかげなのだ。かの有名なトーマス・エジソンを知っているだろうか。多分知らない人間はいないだろう。彼の才能は何故発掘されたのか。それは本人の努力と類稀なる才能もあるだろうが、家族、友人、設備、全てが周りに依存しているのだ。依存というのは少し語弊があるかもしれない。だから「周りに助けられている」の方がしっくりくるだろう。彼は小学生の頃、1+1がわからなかった。それは単純に分からなかった訳では無い。物質を繋げるとそれは1+1=2になるのではなく1+1=1だったからだ。考えてみよう。水1L入った瓶を二つ用意しよう。これなら2つだ。しかし、片方の瓶の水をもう片方の瓶の水に足してみよう。変わらないのである。これをふざけていると思われた彼は学校を追い出された。才能を見抜いてもらえなかったのだ。しかし、家族は必死になって彼のしたい勉強をさせてやった。するとどうしたものか。エジソンは自らで発明することに快感を覚えたのだ。もし、これが家族からも見離されていれば彼は、変わることは無かっただろう。才能が虚無に返っていくだけだったのだ。
なら、全てが環境により決定されるのか?そうではない。だからこそ私は文頭で「記憶させる」事を重要視したのだ。どうすれば「記憶させられる」のかを考えることが一生の中で一番大事なのだと、私は考える。時には環境に助けられても良い。しかし、結局は自分で考えていかなければならないのだ。エジソンも彼なりに考え抜いて「記憶させる」という目的ではなかったとしても行動した結果「発明の父」という称号を得るに至ったのだろう。その称号を得た結果、彼は今も歴史の中で呼吸し続けている。
私は死にたくない。消えるのが嫌だから。ならばどうすべきなのだろうか。人々の「記憶」に残るようなことを成し遂げるしかないのだ。簡単なものでは無い。わかっている。しかし、私は生きていたい。忘れられたくない。