理想的な甘やかされ方


今朝は久しぶりに甘いミルクティとバタートーストの朝食だったのだけれども、やけに美味しかったので、普段は入れない砂糖のせいかとつらつらと思いめぐらしていたら、比較的早くに亡くなった母の姉に思い当たった。

子供のいなかった彼女は四人姉妹のうちで特に仲の良かったすぐ下の妹の子のうち唯一の娘である私をたいへんかわいがってくれたそうなのだが、残念ながらあまり記憶がなく、その中で印象深いものが美味しいバタートーストのゆったりした朝ごはんなのだろう。

当時私は小学校低学年であり伯母の家は子供には異国のように遠かったが、奈良と兵庫しかもどちらも駅から歩いて10分くらいの距離である。近えよ。とアラフィフの身としては思う。南海乗って難波で御堂筋線に乗って中津で乗り換えたら着くよ。
しかし当時の脳みそではそれが理解できなかった感触も覚えているので、よほど自由に行き来したかったのだろう。会話の記憶はしていて後まで意味が解らなかった。
記憶の理由は、年子の兄が周りの大人と対等に会話していてめっちゃ悔しかっただけである。お兄ちゃんさすがと父方一族の長男の長男であり母方ではン十年ぶりの男児だった兄はほめそやされていたが、今ならわかる。奴が鉄だっただけだ。

口が達者で病弱な年子の兄と癇癪もちで手のかかる弟とすぐに仕事を変えどちらの実家にも何かと甘えて面倒をかける見栄えと経歴は押し出しの良い父、という家族構成のうち、特に埋もれないタイプではあるが、ビビりと強情ゆえに完璧主義で見栄っ張りで姉妹育ちの母にすると「この子なんでこうなの」という扱いであった。なんでて父母の子で祖父母の孫だからだが、両祖父母と件の伯母以外の伯母や叔母も含めた女性陣から「毛色の違う」という言動を受けがち、かつ、どう考えても割りを食う立場だったので、私は女性との美しい時間を、しつこくしつこくそらーもうしつっこく覚えている。

どうも、少女にはおそらくそういう美しい時間が、必須栄養素のごとく必要なのだ。

家計からすると明らかに無理をして兄とともに通わされていた私学へは乗り換えもふくめるとそれなりに早く家を出なければならず、二日酔いの父と低血圧の母および兄と二度寝する私と常にみそ汁をひっくり返す弟とで大変なことになるのに、母は何故か学童の朝はかたくなにトーストに何か塗るものしか食事としていなかったフシがあって、また当時は偏食で食の細かった私が食パンを四つに切ってくれだのねだり、父の好みで長かった私の髪をくくるのにヘアピンが止まらないレベルで細く少ない猫っ毛を力任せに梳いたりしていて、…そういや朝がパンだったの本来は朝飯食えないタイプの兄貴がイチゴジャム塗ったパンしか食えなかったせいじゃんと思い出したり。

ちなみに私本当はご飯派なんすよね、ってのは一人暮らししてから判明しました。みそ汁ぶっかけご飯なら当時でも好物だったけど、行儀の悪い扱いだったからさせてもらえなかったのである。一人暮らしの折は一週間分のみそ汁を大鍋で作りジャーには常にご飯を炊いて主食にしていたが、これは好物を長年封じられた反動であろう。

元々パンは苦手でというかご飯という感覚がなく、唇が切れやすかったから、ちょっとあっためたシキシマのスナックパンか小さいあったかいバターかマーガリンのトーストしか朝は食べられないから、小さく切ってもらってたんだよな…あと二度寝してたの起きたら母ちゃんが起きねえから待ってたら寝ちゃった結果なのに何で毎朝怒られるんだと思ってた記憶もある。
私の髪はその後それなりに太くなったが、わが子らの生育状況を見る限り体質のようだ。小学校高学年あたりで癖が出て相応に針金化するのに幼児の頃は風に舞うほど細く少ない毛質である。あれを伸ばして朝くくれという今は亡き父の妄言に少しは逆らえ当時の母。しわ寄せがぜんぶ子供に行っとるわい。

つまり私も(父母に似て)生活スタイルにこだわりがある子供だった上に、家のそれがかなり合わなかった。子供としては苦痛であるが耐えるしかない。物心ついた時から毎朝が戦場で、コレジャナイ感だけはある。つらい。

という背景がある上での、伯母のバタートーストである。

伯母の家は新築で、それもあってか上の子たちだけならそろそろ泊まりに来ても大丈夫だろうと誘われて兄と二人だけでお邪魔したのだけれども、当時それなりに珍しく共働きで夫婦とも主に母方祖母の意向もあってか、けっこう名の知れたいい会社にお勤めであったようだ。月賦の大変さもあった気はする(特に伯父はあまり休みが取れない、ということの説明から横に流れて大人同士の話になっていた)
 祖母ら(父方も母方もである…)の、その成育歴と経歴を思うと仕方がないけれどそれなりに負担な見栄っ張りは、伯母家や我が家の当時を思うとかなり根深く祟っていた。

伯母はキャリアウーマンに入る立場だったのではないかと思うが、母の言動と記憶にある伯母宅台所の調理器具のラインナップから、どうもかなりマニアックというか非日常なレベルのものにもかかわらず、それを花嫁修業の基準と定めたいかにも当時らしい調理の教育をされていたように思う。

ちなみに母がその料理教室で習ったという料理を、私はほぼ一回も食べたことがない。祖母に母がおらず家庭料理の基礎がほとんどないから、可能な限り高級とされる料理教室に通わせた結果、ガチのコンソメスープとかナイフとフォークでの果物の食べ方などを習ってきてしまったからである。しかし嫁入りに際し、必要な器具や食器は持たせられる限り持たせたのだろう。であったとしても卵豆腐用の型は、あのライフスタイルでは使わないと思われる。もしかして祖母の専業主婦至高の考え方に伯母は現実をもって反抗していたのかもしれないが、型は使い込まれた形跡がなかったように思う。

何故か淡雪かんをつくる羽目になったのでこの型のことは覚えている。伯母と晩御飯に作ったハンバーグは美味しくて、そもそも手作りハンバーグそのものが初めてだったが、その後私はハンバーグは自作できるという自信になった。しかし淡雪かんは私はどういうものか知らなくて、材料に卵の白身と寒天と説明された時点で何となくこれたぶん私は食えないな、なぜこの選択だクッキーとかなんかケーキっぽい洋菓子にしてくれと思った記憶がある。たぶん、祖母へ話が回ることを前提としての行動だったのだろう。あの型は使ったと伝わるからだ。そんな気の回し方ばっかりするのがデフォルトだったな、当時の母方は。そこから抜けるのにけっこうかかってしまったが孫世代はまだ影響が薄かったのかもしれない。それはともかく。

母とほぼ同じ経過を辿り自己も稼いでいたがゆえにか元々の資質もあってか、伯母は相応に美味しいものも知っていて、要するに当時なら子供にはぜいたくすぎるものをちょいちょい食べさせてくれたんだろうと思われる。
が、当時のごちそうとは酒飲みむけのものが主体ゆえに今ほど高級かつ子供も食べられるようなものはそんなになかったので、ラインナップは限られていた。
菓子と果物以外で、こどもにごちそうとして食べさせられる保存食が缶詰くらいしかない時代である。ファーストフードが贅沢品でコンビニもまだ無いくらいのころだ、ケーキはバタークリームのデコレーションが主力であった(いまほどの冷蔵・冷凍の発達の裏側には断熱材とバッテリーと発電機の小型化や流通の整備などがあったろうと推測される)。
この背景かつ伯父と二人暮らしの状況で、余っても伯母の家でなんなく消費できるものの範囲での選択、かつ、母のオマケではない私と兄あてのもの、

ゆえにバタートースト、だったんだろう。

バターには、親戚が伝手で手に入れたおそらくは当時は市販していなかった某乳業メーカーのバターが美味しかったと(メーカー名についてはかなりギリだけどそんなとこでバター売ってねえよ何でコーヒーの会社だよという企業名と間違えつつも)語る母の姉であったので、と、母が言うには伯母のほうがバターが好きだったらしい。
ゆえに当時姉妹や親族内では祖母のよく行く百貨店で手に入るもののうち最も高級とされていたらしい缶入りのバターで、パンの切れは母が行きつけのベーカリーで買うよりも分厚かった(おそらく関西では神戸あたりを中心に当時出回り出した四枚切りだと思われる。後に引っ越した先は西日本ではあっても五枚切りと六枚切りは売り場にはじめからあるが四枚切りは指定しないと切ってもらえなかったので、お使いによく出された覚えがある。つまり四枚切りは食パンにおいてはそうメジャーな厚さではない地域と時期がある)。

それにしても、いまでも結構な贅沢だと思う。

このバターはその後稼ぎ出してから伯母を思い出して買ってみたら日本では珍しい発酵バターだったが、小学生なので缶のおかげで美味しいんだろうと思っていた。たぶん当時の保存状態を思うとそれもあろうと思われる。

まあ、めったにないくらい、うんとこさ甘やかしてもらったわけである。

しかも「私だけ」を「親公認」で。

休みで、手のかかる弟も、子供と遊ぶとなると私だけが酔うのを迷惑がりつつ全員を車に乗せて遠出する父もおらず、朝食は元来いらない兄は抜き、伯父はすでに出勤した後に自分のためだけに用意から手間をかけて出してもらったこのバタートースト、…ぶっちゃけ一回か二回しか食べてない(拙宅はその後父の事業の失敗で父方に引っ越し、おかげでこの伯母とも少し疎遠になり、それを子供なりに痛手に思っている中、二回ほど会った後に亡くなってしまった。葬式には連れて行ってもらえなかったが、残念なりにその配慮は間違いではなかったのは当時から思っていた)。

おそらく伯母はその時には紅茶を飲んでいたので、コーヒーではなく紅茶のお供のイメージがあるのだろう。

母はインスタントコーヒーで作るカフェオレ派だったし母方祖母はインスタントコーヒーにコーヒー用の砂糖を入れるのが好きだった。当時それがハイカラだったからであろう。祖母の家は紅茶というと溶かして飲むレモン味の粉か、贈答用の木箱入りティーバッグで、おそらくその木箱の紅茶を伯母が飲んでいたのかもしれない。
 美味しい茶葉が手に入りやすくなった頃に一人暮らしを始め、友人が紅茶にハマったのが紅茶好きのきっかけだと思っていたが、このころから紅茶の方が非日常のイメージが強かったようだ。

四人姉妹の次女たる伯母は、三女の母にしても気の合う美しく優しい姉だったそうだ。
なんせ他の伯母と叔母は、母と似ていてというかこの伯母以外が全員中身が祖母に似ただけではあるのだけれど。伯母めっちゃいいとこ取りゲフンゲフン。どおりで若草物語にも細雪にも例えられたエピソードがないわけである。あったら絶対に耳にタコの出来るレベルで聞かされているはずだ。我がオカンはそういうひとだ。よそに言うても実物が実物なのでなかなか信じてもらえない。

自分には見せる顔がこうであったというだけの話なので、よそからの評判は基本的に食い違うのが祖母と祖母に似た母方でもあるが、伯母については早世もあってかイメージと聞いた話にそんなに差異はない。

ただ、祖母も蝶よ花よと育てすぎてわが娘ながら恐れる存在と化した四姉妹の長姉の一張羅や化粧品を勝手に拝借してデートにおもむき、黙って戻すツワモノではあったようである。なおこれは、上の伯母ちゃんめっちゃ怖いししつこいしどうも祖母ちゃん押し負けて上の伯母ちゃんだけ一番に新品買ってもらってたっぽいしなあ、という母からのエピソードとも合致するというのが、そろそろ伯母の亡くなった年に近づきつつある姪がわの感想である。


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