零度と哲学と私

なぜ『音楽』に『哲学』なのか

『零度』の参謀をつとめます、Kill-Aにございます。 

哲学をして零度の楽曲に更なる力を与えるのが私の役目にございます。
この度は堅苦しい学問であるとばかり思われておる哲学とは何なのかを、かいつまんでお話致しましょう。


始まりは紀元前のギリシアと言われておるのが哲学です。哲学は神の言葉を解す為の学問として神 学と共に学問の祖として生まれました。神の言葉を解す為というのは、当時より(現在もと言っても良いでしょう)人々の信仰対象であった神が言わんとしている事すなわち『善く生きよ』というのはどういう事なのかと考える為と言って良いでしょう。二千年以上にも渡り、哲学者たちは人の本質やこの世の理やこれからの人類について思考を続けています。


また、哲学という言葉は古代ギリシアのアリストテレス(アレクサンダー大王の家庭教師というと分かりやすいでしょうか)が人の本性は『知を愛する』ことにあると考えた事から来ており、 ギリシア語の『philein』(愛する)『Sophia』(知)が語源です。

日本では明治時代の哲学者で ある西周(にし・あまね)がPhilosophyの訳語を『賢哲を愛し希求する』という意味で初めは『希哲学』とし、のちに今の形の『哲学』という言葉としたところから使われるようになりました。 日本にとっては、今研究機関で学び、研究されている外国の哲学というものは舶来ものだったのです。


哲学からは今現在存在する全ての学問が派生していきました。

しかし、哲学が生み出した学問の 徒達は、哲学を要らない学問だと声高に主張し続けています。それは一体何故でしょう。


人という生き物は、強くはありません。身体が壊れれば心も壊れ、その逆もまた同じ。その中で、自分という存在を守るために自分に都合の良い、耳ざわりの良い言葉を選択して生きている人は少なくありません。


更に、哲学は非生産的な学問であると揶揄されることが多い学問でもあります。そう見えるのは、全ての学問が哲学から分化していったものであるからであり、哲学の役割が終わったような気にさせられるからかもしれません。


しかし、良くお考えください。思考を止めることは人を人たらしめる思考からその身を遠ざけ、 善く生きるには程遠い『おしまいの人間』に成り下がる事を意味します。 

また、哲学の役割が終わったと思うのは大間違いなのです。それだけ、哲学が全ての学問を内包し ていることを意味するのですから。

実際に、哲学科の学生の勉強すべき学問は皆様が思っているよりはるかに多く、深いものなのです。少なく見積もっても、宗教学、心理学、言語学、民俗学、 歴史学の知識はないとお話になりませんし、論理的だと言われている理系学問でも必修とされていない論理学を必修科目としてみっちり叩き込まれます。

ノーベル賞受賞者が科学分野の基礎研究に予算が割かれないことを嘆くのと同じです。私は研究者の端くれだったものとして、自分が愛してやまない学問の祖である哲学が蔑まれ、無くなることを願われるこの現状に激しい怒りを感じます。


そして何より、おしまいの人間でいっぱいになった自分の住む国を見たくないとも。


私はその思いを零度に乗せています。

それが歌詞やメンバーの血肉となり、零度の音楽に更なる力 を与え、聴いてくださった皆様にとっても、この世界を『善く生きる』きっかけになることを望みます。


音楽以上の音楽をお約束いたします。 

是非、零度の襲撃をご覧あれ。

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