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手間がなくなること

「手間」とは、自分の「手」をかける時「間」

今までの社会や技術の発展は、人から手間を無くしていく過程という側面をもっているように感じる。
ある同じ「効果」を得るためにかかる時間が極端に少なくなる。

例えば、蛇口をひねれば水が出る、スイッチをひねればガスコンロに火が付く。ちょっとひねれば自分の欲しい火力に調整できる、といったことから、お金を払う代わりに洗車してもらう、庭のデッキを修理してもらう、といった手間代行サービスまで挙げればきりがない。

その中でも、ここでは音楽の配信サービスにフォーカスして書こうと思う。

自分は音楽好きな親の影響もあり、幼稚園くらいの時まではカセットテープ、小学生から中学生あたりまではCD、その途中でウォークマンを手にし、大学でApple musicと、レコード以外の音楽媒体や配信システムは一通り経験してきた。
その過程で音楽に対するアクセスが変わるごとに、自分の音楽に対する気持ちが劇的に変わってきたことをとても強く実感している。そしてそれらの変化は常に手間が少なくなる方向に進むものだった。

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幼稚園の頃、Queenの "We will rock you" や、Oasis の "Going nowhere" など、当時(今でも)お気に入りの曲が十数曲はいったカセットテープがあった。それをよくカセットプレーヤーに入れて聞いたり、家族で旅行に行ったりしたときに、車のプレーヤーでよく聞いていた。
これが不思議なもので、当時の鮮明な記憶なんてほとんど残っていないけど、これらの曲を聴くと当時抱いていた感情のモヤモヤとしたものがうっすらと呼び起こされる。曲や匂いと感情、記憶のリンクはすごいなと感じる。

その後。

小学校低学年の頃、自分が初めて一つの音楽バンドにハマった。それがビートルズだった。クラスに一人くらいいそうなビートルズオタクだった。家にベスト盤一枚があって、それを親が聞いてるのに混じって一緒に聞いているうちに好きになって、誕生日に HELP! を買ってもらってからはお小遣いをためて一枚一枚CDを買っていた。
確か二カ月弱くらいのペースだったような。
新しいアルバムを手にした周辺の日々は、毎日学校から帰ってくると自分用のおさがりのCDプレーヤーでアルバム一枚全部通しで部屋にこもって聞くのが日課だった。独立したスピーカーが二つあって、音質はわりと良かったと思う。プラスチックのケースから傷がつかないようにそっと取り出して、プレーヤーのフタを開けてCDを中にセットして、そのフタを閉じると中でCDが回転し始める。この時の何とも言えないノイズが結構好きだった。読み込み終わると再生待機状態で一旦止まる。ワクワクしながら再生するとまたCDが回転し始めて例のノイズの中からついに音楽が鳴り出す(このワクワク感伝わるだろうか笑)。

ちなみに当時、曲を飛ばすことが出来なかった。理由は、一度飛ばしてしまうとその曲に飛ばしてもいいというイメージがこびりついてしまいそうで、それが嫌だったのと、飛ばすときにCDの回転が変わるのだが、その時の例のノイズの乱れがなんとも痛そうだったから。一曲一曲大切に聞いて、でもその中でも特に好きな曲ができて、他の曲には申し訳ないと思いながらも、その曲だけ抜き出して時間のないときに特別に聞いたりしていた。本当にわくわくする時間だった。今から思うと、どうしてあんなにはまっていたのか、丁寧に聞き込めたのか、かなり謎な部分がある。

初めてウォークマンを手にした時。あの時はものすごく興奮した。どこでも自分の好きな音楽が聞ける。音質も驚異的に良くて、結構衝撃だった。もちろん、ウォークマンに音源を入れるためにはCDをツタヤで借りてきて、パソコンに取り込んで転送しなければいけない。今から考えると少し手間だけど、CDを借りるのはすごくワクワクする体験だった。当時の自分にとってはCDを借りるのも大きな出費だったから、アルバム一枚一枚ちゃんと吟味して借りてた。
でも一方で聞く方の質はあまり高くなかったように感じる。それは多分、パソコンに取り込んでウォークマンに入れることで所有した気になっていたから。いつでも聞けるという環境がその音楽から自分を遠ざけたように感じる。多分始めの数年は音楽を聞くためにウォークマンを使っていたが、だんだん他のことをするためのBGMになっていってしまったような気がする。気が付いたらそうなっていた。曲を飛ばしてしまうことへの抵抗も少しずつなくなっていった。

そして今。今なら音楽を携帯で検索して見つけて、音質もかなりいいものをワンクリックで再生できるし、早送りもできるし、イヤホンがあればどんな場所でも聞ける。配信されているものであれば検索し放題だし聞きたい放題。全部iphone一つで済んでしまうから便利だけど、その分一曲一曲に対するリスペクトというか、聞くときの態度が全く変わってしまったことに気が付く。BGM以上になることはほとんどなく、少し気分に合わないなと思ったらあっけなく飛ばしてしまう。
一つ一つの音楽の背後にある、大量の音楽ストック。もっと今の気分に丁度良いのがあるような気がしてしまう。

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CDは物理的なモノである。お気に入りのCD達の存在を、自分の部屋に飾られているのをみていつも実感できる。プラスチックのCDケースで、新品は表面がつるつるしているから、少し擦れただけで傷がものすごく目立つ。それを付けないように過剰に丁寧に扱っていたのが懐かしい。

同じ音楽が、手続きが変わるだけで宝物にもなれば、取るに足らないBGMになったりする。

ストリーミングサービスの中にあふれているたくさんのものにアクセスして、その一つ一つを粗末に扱って、曲を飛ばしまくっていつまでも満たされないという状況が、自分にはものすごく寂しい現実のように思える。

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今回は、「手間」を省くことで失われてしまうかもしれない事柄の中から、音楽を例にとって書いてみました。全ての手間のショートカットが悪いのではなく、その中には生活を豊かにしてくれるようなものもあると思います。ただ、なんとなく手間をかけたくないという雰囲気の中で暮らしている今、そういう手間をかけることが実は楽しかったり、充実した時間に繋がったりすることを忘れてしまいがちです。

冒頭に同じ「効果」を得るまでのプロセスや時間が短くなる、と書きました。実はそのプロセスが変わることで享受できるものは同じでも、それを受け取る側であるこちらが変わることでその「効果」や豊かさは大きく変わるのでしょう。同じ山に登るのでも、きつい山道を汗水流して上った時と、ケーブルカーで山頂に降り立つ時で感じるものは違ってくると思います。

忙しい日々の中で一旦は立ち止まって、無意識に大事なものを捨ててしまっていることがないか、たまには考えたいものです。


以上です、読んでくれてありがとうございました。

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