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playfulでjoyfulで

窓の外にある大きな木。雨は上がったけど、いつのまにか吹きはじめた強い風にその葉っぱが揺られているのが気になった。

「あーなんかDanceかな」、そう感じて、目の前に座っている友人に「フラダンスとかやってみるのはどう?」と伝えたら「振り付けがあるのは覚えなくちゃいけないからなぁ」という。

ああ、そっか。
そういえばさっき、最近久しぶりにスキップしたら全然できなかったって話してたけど、スキップするのがいいかもなぁ。

繊細ゆえに会社勤めや混み合った通勤電車に疲れきってしまったという友人は、今は病気をかかえる年老いた親御さんや家族とのやりとりに心身ともに悩んでいるようで、そんなFacebookの投稿を見て、帰省ついでに久しぶりに会ってみることにしたのだった。

“playful, joyful”
話しているうちに、今度はそんな言葉が浮かんできた。海外に留学したり住んでいた友人のときどき出てくる横文字に触発されたみたい。
高校時代の彼女は、わたしにはそのplayfulやjoyfulの言葉、そのまんまに映っていた。無邪気で、キラキラと眩しい女子高生。軟式テニスのボールをぼよーんと広い空に放ち、笑う。真っ赤な口紅をつけてバンドでギターをかきならす。自由と楽しさにあふれていた彼女に、何が起きてどうなってしまったんだろう。どこかそう、感じていた。

解決策やアドバイスって、こちらの意向であったりするし良し悪しもあって、本当はしない方がいいんだろうな。最近やっとそのことに気がついた。それでもつい、何かこうしたら?的なことを伝えてしまったかもしれない。

別れ際「いつも人に会うと疲れちゃうんだけど、今日は大丈夫だった。なんか、すっきりした!」と友人。

わたしは、そのあと近くにあるお墓参りを済ませたあと、クルマに乗り込み、高速へ。普段なら眠くなるところ、元気いっぱいで、今までにない早さで家に辿り着いた。わたしが何かをあげたのではない、わたし自身も受け取ったものがあって、それが巡ってきたように感じた。

“playful, joyful” という言葉はずっと残っていて、あとからメールで伝えると、そんなことばから随分と離れていた、と返ってきた。
次に会うときは晴れたお外で、一緒にプレイフルにジョイフルに遊ぼう!

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