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イラストレーションについて 覚書的メモ

イラストレーションがそもそものところで物語や小説などの図解、挿絵、それらの絵画的視覚的表現のことであるということは(Wikipedia)、本質を可視化するというところに近いことなので僕のやりたいことに近しいところがあって。それが好きなんだろうなと思う。あと最近自分が考えることのテーマである「光をあてる」ということも、イラストレーションの語源がイルミネーションと同じ「照らす」「明るくする」という語源から来ていて「光」という意味を持つ(Wikipedia)ということからも自分の好きなことであると言える。
Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

名もなき人々を定義づける最小単位は名前であると思う。主人公にはなれない、主人公になりたくない、普通、その苦しみに囚われた人たちにどう光を当てるか? 匿名性とヒーロー性。その間にこそストーリーがあって多様性の融合地点がある。その表現が日常の一コマである。匿名性とヒーロー性の間にあるその自然との融け合いは、一般的な日常の中にこそあり、全人類に共通の、しかし必ず一致しないイメージの全時間を共有するものである。その中では誰もが主人公であって主人公ではない、概念的な宇宙からの視点で見た一つの時、瞬間の、本質に近づくと言う意味での抽象化である。そこに人の名前は存在するようで存在せず、しかしそれを描き留めた人、もしくはその親い人にのみわかるものである。

イラストレーションは、その新しい見方を定義する新しい目であり、それを通して見た視覚的表現であると考える。だから、イラストレーションにおける表現方法は再定義できるものとも思う。
例えばこの考え方を帽子や家具に応用することもできるのではないかと少し考えている。そこに書かれている情報を自由な視点で読み取り、あるテーマ・手法によって分解を行い、イラストレーターの主眼で見直し、既存のモノや考え方における脱構築的視点によって解釈をしていきながら光を当て続け、絵画的な視覚的表現によって再構築するのである。

これらに関係する重要な素材としての、キーワードからイラストを作り出すAIイラスト、及び既存のイラストレーターさんたちの絵を学習肥料として飲み込んで吐き出すAIイラストについてはまた別途考えてみたいと思う。

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