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アーティゾン美術館『ブランクーシ 本質を象る』感想 形状と材質を考える旅

アーティゾン美術館のブランクーシ展にいってきたので感想を。作品としては決してわかりやすい作品ではないけれど、直感に訴えかけてくるものもあり素直な気持ちで楽しめた。

単なる造形を超えた問いかけ(というほど高尚なものでもないが)

まずは下の画像の作品について。見たところ、というか見ての通り人間の頭部の彫刻だ。この彫刻を見てまず考えたのは、その重さのことだった。頭部の彫刻としてよく見られるように首を下、頭頂部がその名の通り1番上に来るようにした場合にはまず思いつかない考えだと思う。また、首を下にした時には、顔から下はあまり意識が向かず、どのようにして設置しているかにはあまり興味を向けていなかったことも感じてきた。
 単純に頭部を横にすることで、それが質量を持った存在であり、顔という文脈から解き放たれた形状を感化を得られるような気がした。
 そしてこの作品は安らかな様子なのか、それとも死を思わせるものなのか、それを考えさせられるのもやはり横たわっているからこそだと思った(この作品は『眠る幼児』なので眠っている姿らしい)。

形にどこまで意味が込められるか、あるいはどこまで形に意味が込められてきたか

 ブランクーシの作品は、抽象的な言葉を還元して形にしたような作品も多かった。例えば下の作品は、若い女のトルソと若い男のトルソという作品である。かなり抽象的な形だけど、どちらがどちらかと言うのはなんとなくわかるのではないだろうか。次の画像にある作品は雄鶏という作品である。こちらの作品もかなり抽象的だが、やはりタイトルを聞いた後であればなるほどと納得できることがあるのではないだろうか。
 ブランクーシ作品はどこまでシンプルな形で表現できるのかに挑んでいるようにも見えた。ここまでシンプルな形で表現できるの形にした上手さというのはもちろんだけど、これまでの歴史によるイメージの醸成によるものといえるかもしれない。

雄鶏

ひとつなぎの材質(『接吻』)

 作品を見る際に、材質は基本的にあまり考えず、見たときにどう見えるかにしか着目しないことが多い。しかしこの作品は材質と作る工程も考えることで、この『接吻』は、もしこれが金属などで作られていたとしたら、型に流し込むように作るのだろうから、それが1つでできることは不思議なことではなく、繋がっていることに何の意味を感じないかもしれない。しかしこれは1つの石膏を削ることによって作られた作品であり、より深い結びつきを表現することに貢献してるように思う。他の作品にも共通していることだが形状とテーマだけでなく、材質にも深い意味を込めて作成してるように感じた。
 普段彫刻の事はあまりわからないと言って、材質ではあまり見てこなかったのだが、それを再検討するような機会になったように思う。

コレクション展のひまわり(中村彝)に見る生命

 中村彝の『向日葵』はゴッホの影響を受けた作品だろうが、ゴッホのひまわりにある燃えるような存在感はないが、確かにそこに咲く姿が、周りのパイプなどとの一体感を持って息づいている。花びらが落ちている死を感じさせるような花にも、暗さというよりは、ライフサイクルの一部として受け止めているような印象がありった。死を描いた作品というよりは、あるがままの生命を描いた作品という印象があり、それは彼の有名な肖像画にも共通する部分があるように思った。


コレクション展も含めて充実した展示だった。それでは。

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