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素敵で合理的な贅沢 国立西洋美術館 「内藤コレクション 写本」感想

どこ行くかもあまり決めないまま上野に着いて、国立西洋美術館の常設展でも見ていこうかなと思っていたら企画展をやっていたのでフラリと行くことにした。

写本は、聖書などの原本を写したもので、多くは印刷ではなく手書きで書かれたものになっている。字ばかりでなく、行頭の文字を大きくしたり、行間や余白に動植物を入れたり、金箔まで使って彩色する。

展示されていた写本はキリスト教のものが多く、その日ごとにミサでどんなことをするのか、どんな讃美歌を歌うのかといったものが本となっていたり、カレンダーだったりと、初めは一部の大金持ち向けだったのが中産階級にも広がっていった様子がよくわかった。

手元に残した最後の1枚

見て貰えばわかるけど、装飾というにはあまりに手間暇がかかっていて、印刷ができたり、ページデザインを使い回すことができたりといったことができるならまだしも、それを無しでやるというのは正気の沙汰ではないなと思った。

数千冊、数万冊印刷する書籍と比べると、1冊ずつしか作れないこれらの写本は単純に1冊あたりの制作のコストが数千倍、数万倍となるわけで、なんて贅沢なんだという気持ちになった。

一見無駄な贅沢で、非合理的じゃないかとも思ったけど、時間をかけて見ていくうちに、実はとてもメリットのある行為だったのではないかと思えた。

例えば知らない言語で書かれた紙の束が出てきたらどうするだろう。もしかしたら大して中身を見ずに捨ててしまうかもしれない。現代でも起こりうるし、一昔前にいくらでも起こっていたと思う。

それが豪華な装丁で、中身も技巧を凝らしたものだったらどうだろう。何も中身が分からずともその価値を認めて残ることは十分に考えられる。

文字が読めない人に対してもその豪華な本の存在で権威を示せたという面もあったのではないかと思う。事実、宣誓のシーンで使われることもあったという内容が展示で語られていた。

そして今回展示された写本たちは私たちに、当時から今まで続くキリスト教の信仰と伝統を示すことに成功しているといえる。

桁外れに贅沢で無駄遣いのように見えるけど実はとても理にかなっていて素敵な結果がついてきた、というのは、このコレクションを集めて寄贈した内藤氏にもいえるのかななどと生意気なことを考えていた。

動物はドラゴンなど架空のものが多かったり、植物のモデルがわからなかったけど、そのあたりはなんかモチーフにルールみたいなのあったりするのかちょっと気になった。

近くで見られるように工夫されてはいたけど、装飾も文字も非常に細かいので、単眼鏡を持参したり、空いているタイミングを狙ったりするとより楽しめるかと思った。

機会があればどうぞ。それでは。

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