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マネ《オランピア》のまなざし

 11月の個展に絡んでくるモチーフはいろいろあるのだけど、そのうちの一つがマネなので、ここのところマネについての文章を少しずつ書いている。その文章は、個展で販売を予定している展示の図録に収録しようと思っているが、書き進めていくと連想的にあれやこれや入れたくなってくる。そんなことをしていると全然まとまらないので、結局は削るのだが、ならばnoteに書いたらいいじゃないと気が付く。

 というわけで、マネ《オランピア》について徒然なるままに書いていきます。

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 言わずと知れた名画《オランピア》。ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》から構図を借用して、当時の娼婦の名として一般的だったオランピアという題をつけたセンセーショナルな作品。
 僕は実物を見たことはないけど、実際に見たことのあるマネの作品から想像するに、きっと彼一流のクールな筆致が冴え渡っているんだろう。個人的には、オランピアの左手の甲が影になっている部分にモダニティを感じてうっとりしてしまう。
 ところで、この絵は当時の紳士諸兄を怒らせたわけだけど、現代の目から見るとそこまで神経を逆撫でする作品でもない。でも、当時としては女性のヌードを表現するには女神だとか神話だとか歴史だとかいうお題目が必要だった。例えばマネが死んだ少しあとに描かれたジョン・コリア作《ゴダイヴァ夫人》。

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夫を諫めるために裸で街をゆく美しき夫人。とんでもない絵だ。諫めるためだというならアメリカのトップレス解放運動してる人みたいにあけっぴろげな感じだったんじゃないかという気がしなくもないが、ここでは恥じらいの感情が表現されている。当時の紳士たちが「ほう。ゴダイヴァですか…これはまた良いところに目をつけましたね(ウヒ)」「彼女は夫の圧政から民を救うため行動に出たのです。この作品にはその矜恃と恥じらいの葛藤がうまく表現されてますな(ウヒヒ)」みたいなやりとりをしていたのが目に浮かぶ。
 まぁマネの死後のイギリス絵画を例に持ち出すのはちょっと違うかもしれないが、とにかく何が言いたかったというと、19世紀にはヌードを描くためにお題目が必要だったこと、マネの生前はそのお題目がまるで法のように振る舞っていてとてつもない力を持っていたこと、その法のうちにいれば、現代の目から見れば《オランピア》よりもけしからん絵に見える《ゴダイヴァ夫人》みたいな絵でもスキャンダルにはならなかったこと、みたいなことです。
 今思ったけど、カバネルの《ヴィーナス誕生》とかの方が例としては適切か。時代も国もマネと同じだし。

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甘美で退廃的ですね。

 《オランピア》がスキャンダラスだったのは、そんなお題目を全部無視して、同時代の女性の裸を描いたこと。しかも紳士諸兄が身に覚えのあるだろう高級娼婦の名を提げて。サロンの画家は、神話や歴史という一種のフィクティシャスな次元(最近知った言い回しを早速使う)に女たちを閉じ込める。神話、歴史、陰影法、遠近法、寓意などからなる秩序立った芸術の世界に幽閉された女たちの眼差しは、甘美なものとしてしかこちらに届かない。(ヴィーナスの物憂げな眼差しを見よ!)
 それに比べて、《オランピア》はまっすぐこちらを見ている。その目線は、芸術的約束事に歪められていない。一人の人間である、という感じがする。革新的な陰影法も相まって、チェキでその辺の風俗嬢を写したような趣さえある。しかしそれはマネが切り開いた革新後の世界に僕らが生きているからだろう。当時としては、マネの絵画における人物は死体のようだとか黄色いゴリラだとか散々な言われようだったわけで、とても生き生きとしているものだとは見られなかった。実際マネ自身も人物を静物のように扱っている節がある。そこには共感やモデルへのあたたかい眼差しはほとんど感じられない。
 だから僕は現代的に言えばフェミニスト的な視点がマネにあったとは思わない。ただ、アカデミズムの画家と違って、モデルを従来の芸術的約束事の世界に閉じ込めることをしなかっただけだ。

 ところで、今日Twitterで話題になってた環境省のキャラクター「君野イマ・君野ミライ」を知った時、そんな視点の違いを思い出した。「萌えキャラ」と公式が名乗っている点に驚いたが、「萌えキャラ」的様式で描かれたキャラで環境問題の啓蒙を目指していることに違和感を持った。
 「萌えキャラ」にも、アカデミズムと同じく様式や約束事がある。そしてそれはまたアカデミズムと同じく、描かれた人物の目線を閉じ込める。カバネルのヴィーナスが(特に男の)鑑賞者に対して送る目線と同じように、「萌えキャラ」の目線も私たちにとって甘く安全なものである。(日本のアニメの鉱脈は深く、お国が理解する古びた「萌えキャラ」概念にとどまる物ではもちろんないだろう)
 環境問題を訴えるアイコンが、安心安全な眼差ししか持たないのは問題ではないか。現代において一人の人間として環境問題を発信することは危険をはらんでいる。(例えばアレクサンドリア・オカシオ=コルテスやグレタさんは常に逆風に晒されている。学生時代のダンスの動画が発掘されたオカシオ=コルテスは右派に「ポールダンサーになれ」などと言われていたが、彼らは《オランピア》を低俗で卑猥だとヒステリックに非難した当時の紳士たちと似ている。)
 また最近、ネット上では活動家のアグネスさんのことを「女神」と表現することに対する批判もあったが、ここでもまさに神話における「女神」となぞらえることで、彼女をフィクティシャスな次元(最近知った表現を早速使う)に矮小化し、安心するという心理が働いているのだろう。

 このようなフィクション化の作用それ自体は特に批判される物ではないだろう。社会問題や気候問題の深刻さを全て直接受け止められる人は多くない。しかし、それは個々人の話であって、国やマスコミが歪んだ神話化、フィクション化を振りかざして良いという物ではない。
 ここに書いてきたようなことは、特に後半は説教くさいかもしれないし、まぁ取り立てていうまでもないこともあるが、最近のお国のやることは、まさかこんなこというまでもないだろう、みたいなこちらの期待のハードルの下を平然とくぐってくるので、一応書き残しておこうと思った次第です。



 

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