大きな事を考える

いやー、、、本当に自分の周りにはすごい人がたくさんいるなぁ…と最近ホント思う。
人脈自慢とかではなくて、相対的に自分の小ささを感じてしまい、恐縮してしまう一方だ。
(身体は横にでかいけど)

仕事のことなんだけどさ、いや、人生の生き方かも。

大きなビジョンを描けない自分がダメなんじゃないかと思ってしまう一方だ。
心では、そうじゃないだろう。と、わかっているのだろうが、
頭では、焦りのようなものに変換されていく。

まぁ、でもそんな一方で、
「仕事やりすぎたくねぇー!」
と自分セーブしたいと思う気持ちもあると思われ。

具体的に言うと、
僕の仕事は建築設計だけど
年間2〜3棟くらいやるともうお腹いっぱいになってしまう。
それ以上請けたくないし、やりきれないと思う。

こんな事言いきっちゃうと
「俺は年間十何棟設計した」
だの
「若いのにもっと頑張らなきゃダメなんじゃないの?」
とか言われてしまう。

ホントそのとおりだと思う。
自分は結婚もしてないし養うべき家族もいないから
こんなふざけたこと言えるのかもしれないなと思う。

まぁでも、もっとふざけたこと言うと
晴れた日は、好きな自転車に乗れる時間を作りたい。
朝は、コーヒー豆をいろいろ試してみながら飲みたい。
昼から、駅前の立ち飲み屋で酔っ払いたい。
夜はちゃんとしっかり寝たい。
ちょっとまとまったお金が入ったら一ヶ月くらいフラフラ旅行に行きたい

(ダメだ…文字にすると(?)完全にダメ人間だ。。。)

何が言いたいのかというと
すごい大人が周りにたくさんいるのに対して
今の自分の「夢」はそんなしょうもないことばっかり考えてしまう。

ここで優しい人は
「それでもええんやで。」
って言ってくれるだろうが、

建築設計を極めていきたいなら、
そんな事言ってる、いま、この時、もっと努力してるはず。
そこに対する背徳感というか、罪悪感というか、
を感じてる。

だけど、今の自分には
「大きなビジョンを考える」
ということがどうもできない。

「俺の力で地域を変える!」
とかも全然思わないし、
なんならもう少し、日常(主に自転車に乗りたいと思う気持ち)を大事にしたいと思ってしまう。

いつになったら、あんな大きな事をキラキラ目を輝かせて言える自分になるのだろうか。歳?経験?乗り越えてきた責任?

だがしかし大学生の頃夢見た、
「設計して家を造る」
と言うビジョンは、大学生の頃は果てしなく遠い夢であったけど、
今はなんというか、日常になってる。
まぁそんなもんなのかなー。

過去を思い出して考えてみると、
大学時代、私は大風呂敷を広げて設計できるようなタイプじゃなかった。
建築学科あるあるだと思うのだけれど、その次代の建築家がスター扱いされ、学生みんなの思想、関心がその人に寄っていく。
僕の時代でいうと

SANAA Jテラスカフェ

SANAA(さなあ)や、

石上純也さん KAIT広場

石上純也(いしがみじゅんや)さんとかだ。
3DCADなどで構造解析がより詳しくできるようになった今、
構造と言う重みから、空間が自由になることで、より、人の行動も自由になって、建築と人の空間も曖昧になって…公園で…自由で…みたいな
話がよくされていた。

だがしかし、僕はあんまりそういうことに興味はなかった。
ずっと普通の家を普通に作りたい。
と言うか、日本の普通であるべき風景は何なんだろうか
とか住宅供給期のハウスメーカーの担ってきた役割にも十分理解をしているけれども、同時に日本の建築的美意識をぶっ壊した大罪人だとも思っていた。
まぁちょっと関係ないけど。

だから、妙なことは僕は考えられないのだ。
大風呂敷広げられないのだ。突拍子もないことは苦手なのだ。
ハム太郎なのだ。

前、クライミングジムで尊敬していた人が言っていた。
「考えることの大小で、その人の価値を決めちゃいけないよ」
まぁ、本当そのとおりだと思った。
たんたんと誠実に生きる。それもかけがいのないこと。

僕はたんたんと、ふらふらと、ときに自転車に乗りたいのだ。
今の所、大きな夢は持てないのだ。
ちゃんと地に足つけるのだ。自分とnote書きながら、自分に言い聞かせる。

ええんやで…
やるべきことをまずちゃんとやろう。
(やれてない)


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