下書き 言葉と定義の有限with主治医

先日、通院で、主治医といろいろ話してきました。
(充実した対談を、ありがとうございます。)

普段は生活の調子を伝えたりするだけなんですが、この頃は特に不安定でしたので、数十分とっていただきました。話していたことを要約すると、「生きる意味で悩む原因」ですかね、たぶん。

その文脈で、このようなことを対談しました。


(「語彙は、有限、無限のどちらだと思う?」という話題から派生しています。)

たとえば「美しい」という言葉がある。
(主治医)の感じる美しさと、
(キキ)の感じる美しさは、
きっと、どこか別物だろうね。

主治医

そして、説明あるいは「言葉」は、
コミュニケーションの道具である。

主治医

物事を(それこそ「美しく」)理解していく姿には、
円を四角形で近似していくようなイメージがある。

主治医

円(=理解したい物事)の中に
四角形(=説明するための言葉)を入れていく。
それを続けることで、だんだんと円に近づいていく。

主治医

ただし、人は説明に言葉(=四角形)を使うけど、
「美しい」の例然り、
言葉というのは曖昧で、ひずみがある
詰め込んでいる言葉の一つ一つにある小さなひずみが、
相応にできるはずの説明を「分からなく」している

主治医

「生きる意味」と「クイズ」で比較します。
(クイズの概要については説明済み)

キキ

「クイズ」であれば、
コミュニティ(=業界という客体・客観)において制約が存在します。
その制約という箱(前述の「円」に近い)の中に、
どれだけ充填できるか
という形で、
感覚ながら定量的に評価することができます。

キキ

一方、「生きる」という行為は漠然です。
現状の現実的なファクターを想定するとしても、
生きる意味という「主体・主観」とは間接的です。
これにおいて、箱を想定することは困難です。
想定したとして、それはコミュニティの域外です。
定量的には難しいでしょう。(定性的な判断は苦手です。)

キキ

(この後、感情と定性の話が続き、「自分の感情を見てあげてくれ」と諭されました。)


まだまだ話したいことがあるんですが、引用のために公開しています。

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