磐船神社
ニギハヤヒの伝承地を訪ねる① 磐船神社
饒速日命は、物部氏らの系譜を詳細に記す「先代旧事本紀」はもとより、「日本書紀」も神武天皇より先に天降ったと記します。
「日本書紀」の神武天皇即位後の記述で、国見をされた神武天皇が「(前略)ちょうど蜻蛉(トンボ)がつがった(交尾した)形のようだと仰せられ、それで秋津州の名ができた」に続き、伊弉諾尊が「日本は浦安の(平安な)秀真国」大己貴神大神は、「玉垣(美しい山々)の内つ国」、饒速日命が「虚空見つ日本の国」と言ったと記します。
このわずか数行の記述は、私はとても重要だと考えています。旧石器・縄文時代から大和のムラで暮らす人々がいて、そこへ大己貴神大神(≒大国主≒大物主)がやってきて(水耕稲作を伝えた)、次に饒速日命がこの地に天降り(銅鐸祭祀を伝え)大己貴神を信仰する民と共存した(長髄彦の妹と婚姻)。そして神武天皇はこの地で即位された。日本書紀編纂者が大和の歴史の変遷をそのように理解して記したものだと思うのです。( )内は私の想像。
大和地方に水耕稲作が伝わったのは(現在発見されているもので)紀元前5世紀頃(秋津・中西遺跡)、銅鐸祭祀が始まったのは紀元前2世紀頃ですので、私の( )内の想像を当てはめるなら、大己貴神大神と饒速日命はそれぞれ紀元前5世紀〜2世紀の事となります。(紀元前5世紀は中国では戦国時代が始まった頃、紀元前2世紀は泰の統一と滅亡、漢が興った時代)。
また、日本書紀の記述通り饒速日命の後に神武東征が行われたとするなら、それは紀元前後から1世紀頃の間の出来事になると考えます。
もっとも「古事記」には、饒速日命は神武天皇より遅れてやってきたとありますし、ここまでの記述はあくまで私の想像です。
前置きが長くなりましたが、一応そうした年代の事も考慮しながら伝承地を巡ってみたいと思います。
饒速日命 の|降臨地
「天の磐船に乗って河内国の河上の哮の峯に天降った」
磐船神社
大阪府民の森ほしだ園地に饒速日命が天降ったと伝わる哮峰があり、さらに天野川を進むと程なく磐船神社があります。ご神体は巨大な舟形の磐座です。古代において当社の祭祀は饒速日命の子孫である肩野物部氏によって行なわれていたと伝わります。
磐船神社は大阪府交野市 私市にあります。難解な読み方の地名でも有名ですが、そうした地名の由来からは歴史を知る事も多いです。
時は6世紀(575年)。敏達天皇が、皇后 豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)のために、皇后領として全国に稲作良田を求め、選のなかに当時美田で名高かった河内交野の甘田がありました。
その頃、朝廷では蘇我馬子と物部守屋の間に勢力争いがあり、馬子は敏達天皇の皇后に豊御食炊屋姫尊を推し、守屋は先祖伝来の方野の田を皇后領として差し出し忠誠を示します。
以来、この田をまもる部民は皇后のための労役するものとして「私部」と称するようになり、その私部の村を「私部内」と呼び、それがなまって「私市《きさいち》」と呼ばれるようになったという話しです。
この事によって肩野物部氏は衰退。587年丁未の乱で物部守屋が滅ぼされて河内の所領は奪われ、交野での物部一族は途絶えます。
話しが脱線したままですが長くなるので今回はこれで終わります。次回は木積(穂積)氏が奉祀する石切剣箭神社を訪れます。
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