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【LAD】ロサンゼルス・ドジャースの歴史

どうも、こんにちは。雨宿りです。

ドジャースが大谷翔平を獲得したことに伴い、MLBファン合同note企画のドジャース担当として何を書くべきなのか、正直かなり悩みました。書きたいことがたくさんある。けれども自分の能力からして、全てを書くのは不可能であることが明白だったので、ドジャース担当として何を書くべきなのか取捨選択した結果、ドジャースの歴史について書いてみることにしました。

そもそも私が合同note企画にドジャース担当として参加した理由は、ドジャースという球団の魅力を伝えたいというものでした。そして筆者は気づきました。大谷翔平がドジャースに加入したことで、ドジャースという球団の注目度が高まっている今こそ、ドジャースという球団の魅力をできるだけたくさんの人に伝えられる絶好のチャンスなのではないかと。ドジャースの編成本部長であるアンドリュー・フリードマンも大谷の入団会見時に「日本の野球ファンをドジャーブルーに染めたい」と発言していましたが、まさにドジャースの魅力をより多くの人に知ってもらう良い機会だと私自身も思いました。そしてドジャースの魅力を知ってもらうにはまずは球団の歴史を知ってもらわなければと思ったので、今回はロサンゼルス・ドジャースという球団がどのような球団なのかについて史実ベースで書いていければと思います。ドジャースの歴史に関しては私自身もまだまだ学ぶべきことが多いため、今回の記事執筆は自己研鑽の良い機会だと考えています。大谷翔平ありがとう。

ドジャースの歴史

ドジャースの歴史について、まずはその生い立ちから書いていこうと思います。ここではなるべく読者の皆様が読みやすいように、要点をかいつまんで書いていこうと思っているので、球団のより詳しい歴史について知りたい方はこちらのページを参考にしていただけると幸いです。

チーム誕生から1930年代まで

今でこそ"ロサンゼルス"・ドジャースというチーム名ではありますが、実はドジャースというチームはもともとロサンゼルスの球団ではありませんでした

今からおよそ140年前の1883年、ニューヨークのブルックリン地区にて今日のドジャースという伝統ある球団がその栄光の歴史の幕を開けました。当時このチームはブルックリン・アトランティックスとして知られており、これは前年までブルックリンにて活動していた野球チームの名前を借りるような形でした。翌年の1884年にチームはアメリカン・アソシエーション(1882年〜1891年まで米国で運営されていたプロ野球リーグ)に加盟し、1889年には見事にリーグ優勝を果たしました。チームは創設当初から興行的に成功していたことから、優秀な選手を寄せ集めたり、経営状況が芳しくなかった他球団を買収しながらチームを強化していきました。

1890年になると、ナショナルリーグに加盟(アメリカン・アソシエーションから鞍替え)し、その年に見事リーグ優勝を果たしたことで瞬く間に強豪チームとして名を馳せるようになります。マンハッタンに本拠地を構えるニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)とのライバル関係を築くようになったのもこの頃からだと言われています。1899年と1900年にはリーグ優勝を果たしたチームですが、20世紀に突入すると成績が思ったように伸びず、1904年から1914年までの11年間はすべてのシーズンを負け越しで終えました。1913年に本拠地をワシントン・パークからエベッツ・フィールドへ移し(1957年まで本拠地とする)、監督も交代したことで、チームは再建に乗り出すこととなりました。チーム名については諸説ありますが、この頃は、グレイズ、ブライドグルームス、グルームス、スーパーバス、あるいはロビンズなどと人々に呼ばれていたそうです。

そして1932年になると、遂にチーム名を正式にブルックリン・ドジャースへと変えることになりました。

ここで一つチーム名の由来についてお話ししておくと、「ドジャース」とは「dodge(よける)する人たち」という意味を持ち、これはかつてニューヨークのブルックリン地区で発達していた路面電車(トローリー)を巧みによけるブルックリンの住民ら(子ども)が由来しているとされています。dodgeという言葉は一見すると、日本人には馴染みのない言葉のように感じるかもしれませんが、実はドッジボールのドッジ(dodge)という言葉も「よける」という意味を持つこの言葉から来ています。つまりドッジボールというのはボールをよけるゲームということですね(小学生の頃、ボールをよけずにキャッチしようとばかりしていた筆者はドジャーではなかったのですね…)。

これまた余談ではありますが、野球の神様と呼ばれるあのベーブ・ルースも実は1938年に一塁コーチとしてドジャースと契約した過去があるんです。ドジャースはチケットの売上を上げるためにルースを雇ったとも言われています。

ドジャースのユニホームを着るベーブ・ルース

ジャッキー・ロビンソンの時代

1947年の4月15日にドジャースの歴史、いやメジャーリーグの歴史、いや世界の歴史が大きく動く出来事が起きます。メジャーリーグ(1900年以降)で初めてアフリカ系アメリカ人の選手がプレーしたのです。その選手の名は、ジャッキー・ロビンソン

当時ドジャースのゼネラルマネージャー(GM)を務めていたブランチ・リッキーはチームを強くするために優秀な選手を欲しており、そこに肌の色は関係ないと考えました。能力さえあれば、誰だってチームに迎え入れるというリッキーの剛腕によって、ドジャースという旗のもと、1900年以降初めて黒人選手をチームへと誘ったのです。ちなみにこのときロビンソンをリッキーに推薦したのは、スカウトのジョージ・シスラーという人物で、彼は2004年にイチローに抜かれるまで、シーズン257安打のMLB最多安打記録を84年間保持していた人物でした。

これは有名な話ですが、リッキーがロビンソンを迎え入れるときに求めたのは「やり返さない勇気を持つ」ということ。リッキーはロビンソンと契約を結ぶ際に、あえてロビンソンに対して罵詈雑言を浴びせ、ロビンソンが反撃してこないかを確かめたというエピソードさえ残っています。そして反撃しなかったロビンソンに対してこう言ったそうです。

「君はこれまで誰もやっていなかった困難な戦いを始めなければならない。その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つんだ。」

こうしてドジャースへの入団を果たしたロビンソンは1年目から新人王を受賞するなどの大活躍。彼がドジャースにてプレーした1947年から1956年までの10年間で6度のリーグ優勝をチームにもたらし、1955年には悲願のワールドシリーズ制覇を果たしました。実はこの年のワールドシリーズは史上初めてカラーでテレビ中継が行われた試合でもあり、そのような歴史的な試合でドジャースは世界一になったのです。この時代のドジャースは、ロビンソン以外にも投手のドン・ニューカム、捕手のロイ・キャンパネラ、ショートのピー・ウィー・リース、外野手のデューク・スナイダーらを擁する強豪球団でした。

ジャッキー・ロビンソンという一人の選手の活躍によって他球団も次々とアフリカ系アメリカ人の選手を採用することとなり、野球界はもちろんのこと、アメリカ社会における人種差別という重いテーマに光を当てることにもなりました。ジャッキー・ロビンソンは人種の壁を越えて多くの人々に影響を与え、野球だけでなく、社会の進歩に貢献したのです。

正直、彼については話したいことがまだまだいっぱいあるのですが、今回はドジャースについての記事なので、この強い気持ちは抑えることにします。彼についてもっと知りたいという方はぜひ『42 〜世界を変えた男〜』という映画をご覧になってみてください。私は4度観ました。名作です。

ブルックリンからロサンゼルスへ

1950年にリッキーがドジャースを離れると、ウォルター・オマリーという人物がドジャースのオーナーに就任しました。オマリーはそれまではドジャースの顧問弁護士を務めていた人物で、当時ドジャースのGMを務めていたリッキーとは対立関係にあったとも言われています(ロビンソンとの契約に否定的だったとも)。そんなオマリーがリッキーの退団とともにドジャースの経営権を手に入れると、ブルックリン地区内に新球場を建設することを考えます。というのも当時本拠地であったエベッツ・フィールドの老朽化や、収容人数の少なさ、駐車場の狭さなどが問題視されていたのです。

そこでオマリーはブルックリンで新たに土地を購入しようとしましたが、ニューヨーク市側がこれを認めず、最終的にオマリーは1958年にメジャーリーグの西海岸市場への進出によってもたらされるであろう経済的な恩恵に預かろうと、チームをロサンゼルスへと移転することにしました。このとき、ニューヨークのマンハッタンに本拠地を構えていたニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)もドジャースと一緒に西海岸へと移転することになりました。

当時このドジャースのロサンゼルス移転はブルックリンの人たちにとってはあまりに衝撃的なもので、「20世紀の三代悪人はヒトラー、スターリン、オマリー」などと言われるほどでした。

ロサンゼルス移転後

球団をロサンゼルスへと移転したオマリーは、まず新球場の建設に努めました。新球場が完成するまでの間は、ドジャースはロサンゼルス・コロシアムというアメリカンフットボールの球場を本拠地としました。この球場は野球場に適した形ではなく、左翼までが極端に狭く、反対に右翼までが極端に広いという問題を抱えていましたが、想像以上にたくさんの観客を動員しました。

歪んだ構造のロサンゼルス・コロシアム

1962年からは、ドジャー・スタジアムを本拠地とするようになり、1978年にはメジャーリーグで初めて年間の観客動員数で300万人を超えるなど、オマリーが決断したチームのロサンゼルスへの移転は、ニューヨークに住む人たちからは激しい非難を浴びたものの、チームの人気面でも、観客動員数面でも大成功だと言われるようになり、ドジャースはアメリカ屈指の人気球団へと成長することとなりました。

ロサンゼルスへ移転後のドジャースは攻撃力こそ今ひとつでしたが、サンディ・コーファックスとドン・ドライスデールという2人の絶対的なエースを擁し、1959年、1963年、1965年にワールドシリーズを制覇しました。

1970年代には3度のリーグ優勝を果たしたものの、この10年間ではワールドシリーズのタイトルを獲得できず、1976年のシーズン終了間際にそれまでチームを4度のワールドチャンピオンに導いたウォールター・オルストン監督が突然引退し、後任には後に殿堂入りを果たすトミー・ラソーダ監督が就任することになりました。今でこそ大衆化された「ドジャーブルー」という表現は、ラソーダ監督の「私の体を切ってみろ。私からドジャーブルーの血が流れるはずだ。」という言葉から来ており、それだけ彼がドジャース愛の強い人物だったことがわかります。ラソーダ監督は選手のモチベーションを高めるのがなんとも上手な監督で、彼のもとでプレーした選手はみんな彼のことを慕っていきました。

1981年にはメキシコ人のフェルナンド・バレンズエラが投手としてデビューし、新人投手として初めてサイ・ヤング賞を獲得、ドジャースを5度目のワールドシリーズ制覇にも導きました。ちょうど今年の夏に彼の背番号34が永久欠番にもなり、ドジャースレジェンドの仲間入りを果たしています。そんな彼は現在、ドジャースのスペイン語中継の解説者としても活動しています。

1988年にはドジャースは7年ぶりにワールドシリーズへ進出を果たしましたが、主砲のカーク・ギブソンがリーグチャンピオンシップで足を負傷してしまい、ワールドシリーズへの出場は絶望的な状況でありました。しかしそんな中、なんとワールドシリーズの第1戦でギブソンが足を引きずりながら代打として出場し、劇的なサヨナラホームランを放ったのです。最終的にドジャースは7年ぶりのワールドシリーズ制覇を成し遂げ、このシーンは今でもメジャーリーグの名シーンとして語り継がれています。

当時この試合の全米ラジオ放送のアナウンサーを担当したジャック・バックの"I don't believe what I just saw!"という名言も有名です。メジャーリーグファンならば一度は聞いたことがあるかもしれませんね。

その後1994年にはパク・チャンホが韓国人として初めてメジャーリーグの試合に出場し、翌年の1995年には後に日本人のメジャー挑戦の先鞭をつけた野茂英雄がドジャースでメジャーデビューを果たしました。彼がいなければ、今のメジャーリーグで日本人がこれほど活躍することもなかったかもしれません。

野茂英雄のメジャーリーグ挑戦についてはMNsportsさんによるYouTube動画が非常に面白いのでおすすめです。

この頃のドジャースはマイク・ピアッツァや野茂英雄といったスターに恵まれたものの、1988年以来ナショナルリーグのペナントを獲れておらず、これは球団名がドジャースになってからは、もっとも長い不名誉な記録でした。2000年代に入ってからもポストシーズンには進出したものの、ワールドシリーズに行けることはなく、チームとしても伸び悩んでいた時期がこの頃でした。また2009年には当時ドジャースのオーナーだったフランク・マッコートとその妻であるジェイミー・マッコートの別居が報道され、この頃からドジャースの経営面での懸念が徐々に明るみに出始めました。

もともとマッコート夫妻は、球団を買収して以降たびたび派手な金遣いが話題になっており、決してファンの間では評判は良くありませんでした。なかでも酷いのが、「ポジティブな波動をチームに送る」という名目でロシアの霊能者に数十万ドルもの大金を払ったというものです。そしてこのような常軌を逸したお金の使いっぷりによって、1億ドル以上の球団資金が使われていたことが後に明らかにされています。2009年にマッコート夫妻の離婚騒動が繰り広げられると、事態はますます悪い方向へと進んでいったのです。

両者の離婚騒動は、単なる離婚のみならず、単独オーナーとしてのチームの完全経営権を手に入れたい夫フランクに対し、共同オーナーとして50%のチーム保有権を主張し、さらには夫からの完全買収をも狙う妻ジェイミーの争いにまで発展し、チームにも大きな影響を及ぼしました。

オーナーであるマッコート夫妻の個人的な問題が、ドジャースの財政状況を苦しくし、結果的にチームの競争力の低下やファンの減少といった事態にまで繋がってしまいました。すると、2011年の4月に当時のMLBコミッショナーであったバド・セリグはドジャースをMLB機構の監視下に置くことを表明し、選手の補強を含め球団経営に関する全ての決定においてMLB機構の承認を得なければならなくなりました。そしてその2ヶ月後、ドジャースは破産申請を行うことになるのです。

この一連の騒動について詳しく知りたい方は、以下の記事をご参照ください。

2011年といえば、マット・ケンプがMVP級(MVP投票では2位、筆者は納得していません笑)の活躍をみせていたシーズン(チームはナ・リーグ西地区3位)で、筆者がドジャースを好きになったのもこの頃でした。当時まだ小学生だった私はドジャースがこのような経営難に陥っていたとは知りもしませんでした。

話は逸れますが、実は2011年にドジャースのチームロゴが少し変わっていたそうです。私も今回初めて知りました。

正直違いがあまりわからない…

金満球団へ

オーナーのマッコート夫妻による球団資金の私的流用や離婚問題の泥沼化などによって球団経営が悪化したドジャースでしたが、2011年の11月になると、遂にフランク・マッコートがドジャースを売却することに同意します。そして翌年の3月にグッゲンハイム・ベースボール・マネジメント(現オーナーグループ)がドジャースの所有権を獲得することになりました。まさにドジャースの救世主です。

最終的に球団を買収したのは大谷のキーマン条項で一躍話題になったマーク・ウォルター率いるグッゲンハイム・ベースボール・マネジメントでしたが、球団買収相手として最終候補に挙げられていた人物の中には現在ニューヨーク・メッツのオーナーを務める(2020年から)スティーブ・コーエン(山本由伸とのイチャイチャぶりも話題に上がってますよね)もいたそうです。

ここで少し簡単に、グッゲンハイム・ベースボール・マネジメント(以下"GBM"とする)について説明すると、このグループはドジャースを買収するために設立されたグループで、主要メンバーにはアメリカの資産運用会社グッゲンハイム・パートナーズのCEOを務めるマーク・ウォルターを中心に、元NBA選手のマジック・ジョンソン、アトランタ・ブレーブスの元球団社長スタン・カステン、映画プロデューサーのピーター・グーバーなどの各界著名人が名を連ねています(2019年までに10名がグループに参画)。GBMについては個人的にこちらの記事が面白かったので共有しておきます。

2012年にGBMがドジャースを買収すると、当時落ち込んでいたチーム経営の立て直しを行いながら、選手補強にも多額の資金を充てるようになります。実際チームの総年俸も2倍近く膨れ上がりました。翌年の2013年には、GBMはタイム・ワーナー・ケーブルとの大型テレビ契約を結び、新しい地域スポーツネットワークであるSportsNet LAを創設。見事にドジャースの経営を回復させ、チームを強豪球団へと導いたのです。これだけスポーツとビジネスの世界で名高い人たちが集まれば、当然の結果とも言えるのでしょうか。(まさしく「お金」のドジャースですね)

常勝球団になったドジャース

オーナーが替わったことで常勝球団へと生まれ変わったドジャースは、2013年には、その年にサイ・ヤング賞を受賞するクレイトン・カーショウを筆頭に、ザック・グレインキーやヤシエル・プイグ、韓国から獲得したリュ・ヒョンジン、そしてクローザーに定着したケンリー・ジャンセンらの活躍で4年ぶりに地区優勝を果たしました。2014年、2015年も新戦力の活躍により地区優勝を果たしたものの、ポストシーズンではあっけなく敗退してしまいました。

2015年のシーズンからドジャースで新設された編成本部長という役職にウォール街出身という異例の肩書を持つアンドリュー・フリードマン(大谷のキーマン条項の対象)が就任。これがドジャースをさらに強くします。

フリードマンは、金にものを言わせて他球団から選手を連れてくるだけでは、チームの持続性に限界が来ると考え、チームのファームシステム(選手育成)にも力を入れ始めます。強力なファームシステムは今のドジャースの大きな魅力の一つであり、大谷がドジャースへの入団を決めた理由の一つでもあると筆者は考えています。ドジャースのファームシステムについては、素晴らしい英語の記事がありますので、ぜひそちらも読んでみてください(英語がわからない方でも翻訳リソースを活用して読むだけの価値はあると思います)。

2015年のオフにはメジャーリーグ史上初、日本生まれの監督デーブ・ロバーツがチームに入閣し、同時期には日本から前田健太もドジャースへ入団しました。この時期からドジャースのファンになった日本人も多いみたいですね。

2016年にはコーリー・シーガーが新人王を受賞し、チームも4年連続で地区優勝を遂げました。ただ個人的にこの年で一番思い出に残っているのは、ヴィン・スカリーの引退です。ヴィン・スカリーは1950年、つまりあのジャッキー・ロビンソンが活躍していた時代からドジャースの専属実況アナウンサーを67年間も務めていた人物で「20世紀で最も偉大なスポーツ・アナウンサー」とも呼ばれる人物です。

スカリーの声は、世代を超えてたくさんの人に愛されており、選手たちの背景や人生のストーリーを紡ぎ出し、彼らをただの選手ではなく、一人の人間としてファンに近づけました。2022年に94歳という年齢で亡くなってしまいましたが、彼の功績は今でもドジャースに色濃く残っています。

スカリーの後を継いだジョー・デービスも筆者がとても好きなアナウンサーの一人で、その人気から今ではMLBのワールドシリーズやオールスターゲームでの実況に加えNFLの試合でも実況を務めるなど、引っ張りだこのアナウンサーです。ドジャースは現地の実況に恵まれているチームなので、来年からドジャースの試合を観る方には、ぜひ一度は現地実況音声で試合を楽しんでいただきたいです。

2017年から2019年もドジャースは強さを見せ、7年連続でナショナルリーグ西地区を制したのですが、いずれの年も1988年以来のワールドチャンピオンの栄光を掴み取ることはできませんでした。

2020年はみなさんご存知の通り新型コロナウイルスが世界を震撼させ、その影響はもちろんメジャーリーグにも及びました。シーズンの開幕が遅れ、試合も無観客で行われることになったのです。そんな中、ドジャースは前年のオフに獲得したムーキー・ベッツを軸にMLB全球団中1位の勝率で地区優勝すると、ポストシーズンでは、これまでにないほどの強さを発揮し、32年ぶりに世界一に返り咲きました。他球団ファンからは「短縮シーズンだから勝てたんだ」「短縮シーズンのチャンピオンリングは偽物だ」などの評価も受けましたが、30球団が同じ状況下で戦ったということ自体は、今までのシーズンと変わらないですし、このシーズンでドジャースが一番強かった球団であることは間違いありません。とはいえ、ドジャースが通常の(短縮ではないという意)シーズンでのチャンピオンリングを強く欲していることは、21年オフのフレディ・フリーマンや今オフの大谷翔平獲得などからもわかることでしょう。直近の2年はいずれもポストシーズンのディビジョンシリーズで同地区のチーム相手に敗れていますが、大谷という強力な戦力を加えた来季はどのような結末が待っているのでしょうか。

最後に

ざっとドジャースの歴史を振り返ってみました。初めはドジャースが大谷翔平を獲得したことについての記事を書くことも考えたのですが、すでにあらゆるメディアで連日連夜のようにこの件については報道されており、合同note企画のドジャース担当としてこの件で他と異なった内容を書けるかと言われるとなかなか難しいと感じたため、今回は角度を変えてドジャースの歴史について書いてみました。

読みやすいように要点をかいつまんで書くと宣言したものの、10000字近い内容になってしまい、大変申し訳ございませんでした。そして最後まで、私の稚拙な文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。この記事をきっかけにドジャースというチームに興味を持ってくれる人が少しでもいれば、私としても嬉しい限りです。

すでにたくさんの歴史を塗り替えてきた大谷翔平ですが、これからはドジャースの選手として、さらに多くの新しい歴史を作り上げてほしいですね。

では今回はこんなところで失礼します。

<参考文献>

Los Angeles Dodgers Franchise Timeline|MLB.com
Los Angeles Dodgers|Wikipedia
Los Angeles Dodgers|Britannica
5 Amazing Facts You Didn't Know About the Dodgers|12UP
Dodgers History: Ten Fast Facts About the Los Angeles Dodgers|Dodger Blue
ドジャース破綻の舞台裏(上)|Trans Insight
Who owns the Los Angeles Dodgers? Ownership structure of Shohei Ohtani's next team explored|sportskeeda

ヘッダー画像:https://www.britannica.com/topic/Los-Angeles-Dodgers

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