スコット・アーロンソン(Scott Aaronson)は量子計算理論の分野で著名な研究者です。
彼は最近、自身のブログで誤り耐性量子コンピュータ(FTQC)が大きく進展してきていることについてこう述べています。
ただし、これを読んで「また誇大広告かな」と思われる方も多いでしょう。そう思われてしまう理由があるからです。
そこで、スコット・アーロンソンは人々が量子コンピューティングを真剣に受け止めない理由を5つ挙げて、それぞれに対して現状を踏まえた反論を展開しています。
その内容が興味深いので、私なりの解説も含め、それぞれ簡単にまとめました。
量子コンピューティング:希望と誇大広告
スコット・アーロンソンのブログ記事のタイトルは、「Quantum Computing: Between Hope and Hype」(量子コンピューティング:希望と誇大広告の狭間)となっています。
まあ、量子コンピューティングに関しては、常に「希望」と「誇大広告」が同時に存在しています(ある意味、重ね合わせですね)。
ブログ記事の中でも、彼はこう述べています。
しかし、彼はさまざまな企業(Microsoft、Google、QuEra、PsiQuantum、Xanadu)からの成果に触れて、FTQCの可能性について楽観的になったと述べています。
なお、彼のこの記事は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で開催された「量子コンピューティングとポスト量子暗号」に関する米国とインドの両国共同のワークショップ(2024年9月16日)における、彼のスピーチの原文を掲載したものです。
そのため、将来的に起こるであろう量子コンピュータによるインターネットの安全性への攻撃(例:Shorのアルゴリズム)に対しての対策としてポスト量子暗号をより真剣に検討する必要性を訴えています。
彼は量子コンピューティングを非現実だと切り捨てないで、現状をよく踏まえて見直す必要があると説いています。
信じない理由1:本当だとしたら凄すぎる
つまり、人々が量子コンピュータを信じない理由の一つは、間違った理解に基づく過大な期待です。
量子コンピュータがあらゆる問題を瞬時に解けるようになるとは今のところ考えられていません。ただし、特定の計算問題(例:大きな整数の素因数分解)に関しては、量子コンピュータは古典コンピュータ(現在のコンピュータ)よりも圧倒的に速く解くことができるとされています。
この能力が実用化されたときに最も危うくなるのが、インターネット上で広く使われているRSA暗号技術などの安全性です。これらの暗号は、解くのが非常に難しい大きな整数の素因数分解を基にして安全性を保っています。しかし、量子コンピュータではショアのアルゴリズムを使うことで、これらの問題を非常に短時間で解けてしまいます。そのため、十分に強力な量子コンピュータが開発されれば、インターネット上のセキュリティは大きな脅威にさらされることになります。
その一方で、古典コンピュータは、多くの実用的な計算問題を十分なスピードで解くことができます。よって、あらゆる問題を量子コンピュータで解けるようになることを目指す必要もありません。
また、量子コンピュータは、「並列処理によって、あらゆる可能性を瞬時に計算し出力できる」わけではありません。よって、「並列宇宙で全ての解を同時に試す」こともありません。
これでは、信じられなくて当然です。
このような過大な期待が生じるのは、量子コンピュータの仕組みが理解されていないからです。これに対して、スコット・アーロンソンは次のように述べています。
上記の説明を読んで「なるほど!」と理解する人はそもそも誤解がない人たちです。スコット・アーロンソンはそれなりの専門知識がある人々を前にスピーチをしているので、上述のような内容になっているのでしょう。
しかし、量子力学を利用するコンピュータを量子力学の原理を知らない人に伝えるのは簡単ではありません。スコット・アーロンソンの主張は正しいですが、難しくもあります。
そのため、メディアや記事が量子コンピューティングを簡単に理解できるように伝えようとすることで、「すべての解を同時並列に試し、問題を瞬時に解決する」という誤解が広まった可能性があります。もしくは、そもそも説明する側に誤解があったのかもしれません。まるでGPUのさらに上をいくかのような誤解は、現在のコンピュータの延長線上で量子コンピュータを捉えようとすることが要因でしょう。
簡単にいうと、量子コンピュータは、量子状態の「重ね合わせ」や「干渉」や「量子もつれ」といった量子力学的な特性を利用して、特定の計算問題に対して効率的に解を見つけることを目指しています。
信じない理由2:技術進歩は停滞している
古典コンピュータはこれまで大きな進化を遂げましたが、基本原理自体には大きな変化はありません。真に新しいタイプのコンピュータは生まれてきていません。
いろんな技術やアプローチが発表され話題になる一方で、根本的な変化は起こっていないという現状に対する失望感が漂っている、スコット・アーロンソンは、このような雰囲気を言い表しています。
ここは、「もうちょっと暖かく見守ってほしい」といったところでしょうか。
憶測ではありますが、彼は、量子コンピュータにもAIと同様の進展が起きてほしいと願っているのかもしれません。
信じない理由3:20年経ったがまだない
ショアのアルゴリズムが発表されたのが1994年なので、かれこれ30年経っています。もちろん、D-Waveの量子アニーラは商用のマシンとして登場しましたし、ゲート型の量子コンピュータもさまざまな企業によって開発され、そのいくつかはオンラインのサービスでアクセスすることも可能です。
それでもまだインターネットの安全性に破壊できるようなハードウェアは登場していません。
これに対して、スコット・アーロンソンはこう述べています。
ここも、「もうちょっと暖かく見守ってほしい」といったところでしょう。「正しい理論だって、時間はかかるのだから」、と。
また、次のようにも述べています。
量子誤り訂正(Quantum Error Correction)は、量子コンピュータが持つ誤り(エラー)を修正し、量子情報を正しく保持するための技術です。
量子コンピュータは量子ビット(qubit)を使って計算を行いますが、これらの量子ビットは非常に繊細で、外部の環境ノイズや不完全な操作により容易に誤りが生じます。よって、エラーが発生しやすく計算結果が崩れてしまいがちです。
そんなエラーを訂正するための理論はあるのですが、実装するためには大量の量子ビットが必要なため、なかなか大きなスケールでは実現していません。
ただし近年、量子誤り訂正の実験的な研究が進展し、エラー訂正の精度向上や、実用的な規模の量子ビット数における誤り訂正の実装が成功しつつあります。これにより、量子コンピュータの実現に向けた重要な一歩を踏み出しています。
誤り耐性量子コンピュータ(FTQC)が実現するには、量子誤り訂正が必須と考えられているので、この進展は重要です。
このような最近の進展が起こる前から、彼は「もう20年経ったけど、僕の量子コンピュータはどこにあるんだ?」という批判には動じなかったと述べています。
信じない理由4:量子力学は完成していない
まあ、ここまで信じない人はどうしたらよいものかと思ってしまいますが、ノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズでさえ、現在の量子力学は現実の世界を記述しきれていないと主張していることもあり、この批判に対抗するのは実は結構難しいです。
もし、仮に量子力学に不備があり、それが量子コンピュータが思ったように進歩しない理由だとしたら、知らないことは知らないので反論のしようがありません。
これに対して、スコット・アーロンソンはこう述べています。
スコット・アーロンソンが述べている「新しい領域」は、これまでの量子力学の検証が行われてこなかったことに対して、量子力学の理論に基づく実験やテストを行うことで、むしろ量子コンピュータそのものの議論とは離れています。
なぜなら、量子力学自体が間違っているのであれば、量子コンピュータをこのまま構築することは無駄になるからです。
つまり、「そこまでいうなら量子力学の理論が破れるかどうか見極めるしかない」ということです。問題があるかどうかもわからないのだから、それは量子コンピュータに対する直接の批判にはならないよと。
まあ、量子コンピュータを構築し続けるのもある意味「新しい領域」で量子力学の検証を行なっているようなものでもあります。
信じない理由5:誤り耐性は不当な仮定だ
デコヒーレンス(Decoherence)は、外部環境などによる作用によって、量子の状態が「壊れる」現象を指します。このため量子計算で必要な「重ね合わせ」や「量子もつれ」などの特性が失われてしまい、正確な計算ができなくなります。
デコヒーレンスが起きる原因は、熱振動や電磁波の影響などさまざまです。超伝導式の量子コンピュータなどでは、量子ビットを極低温(ほぼ0ケルビン)で保持したり、シールド(遮蔽)を施すことで外部環境との相互作用を最小限に抑えたりします。
また、量子誤り訂正アルゴリズムを用いてエラーを検出・訂正するなどの工夫がされています。量子誤り訂正が可能な量子コンピュータを誤り耐性量子コンピュータと呼びます。
つまり、誤り耐性量子コンピュータの前提として、誤り耐性を実現できるという前提(仮定)があります。その前提自体を疑っているのが、ギル・カライです。
彼は論文の中で、NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)コンピュータと呼ばれる中規模な量子コンピュータに関して、そのノイズレベルが量子優位性(quantum supremacy)や量子誤り訂正を実現するための基準を下回ることができないとしています。
これに対して、スコット・アーロンソンは次のように述べています。
要するに、量子力学の原理を使わずに古典コンピュータで量子系を効率よくシミュレートすることは困難だと言っています。
これはファインマンが量子コンピュータを提案した時の議論に立ち返っているかのようです。
また、ファインマンのこの提案を基に、量子コンピュータは古典コンピュータでは再現できない特定の計算を実行する能力を持つとされており、これが量子優位性の概念に繋がっています。
もし仮に、ノイズの影響を含めた量子系を古典的な手法でシミュレートすることができるならば、ファインマンの提案した「量子コンピュータが持つ計算能力の優位性」は失われてしまいます。
したがって、量子コンピュータに対する批判者は、ファインマンの提案した「古典コンピュータでは実現できない領域(新しい領域)」に対してどのような反論を用意できるのかを示す必要がある、とスコット・アーロンソンは指摘しているわけです。
さらに、彼は、Googleが発表した量子優越性の実験を取り上げています。
古典コンピュータでは不可能なことがある現実を見ろ、主張しているわけです。
まとめ:NISQかFTQCか
最後に、スコット・アーロンソンは、量子コンピュータが現実のものとなりつつある状況を踏まえ、次の3つステップについて以下を上げています。
より優れたハードウェアの開発よる安定した誤り耐性の実現。
誤り訂正の向上を目指し、技術や手法の開発と改良。
新しい量子アルゴリズムや優位性を発揮できる問題の探索。
また、NISQとFTQCのどちらに注力するべきかという問題を考察しています。
今後は、すべてのリソースをFTQC(誤り耐性量子コンピュータ)の開発に注ぎ込むべきか?それとも、NISQ(誤り耐性がない中規模の量子コンピュータ)において量子優位性を証明する努力を継続すべきか?
FTQCの開発がスケーリング(規模の拡大)に不可欠であり、NISQの成果は「スケーラブルでない一時的な成功に過ぎない」とする見解もあります。しかし、スコット・アーロンソンは「短期的な量子優位性の実証」も追求すべきだと主張しています。また、こうした実証を近い将来に行えると楽観しており、Quantinuumと協力して実現を目指していると述べています。
まあ、これは彼が実際にNISQに取り組んでいることと、やっぱりFTQCにはまだいろいろと課題があるということでしょう。
最後の方で、彼は「25年前に量子コンピュータの研究を始めたときは、生涯のうちにその成果が実験的に証明されることはないかもしれない」と振り返っています。
しかし、実現性が高まってきており、興奮している様子が伺えます。
そんなに成し遂げたかった「最重要な応用」とは、いったい何なのでしょうか?
(終わり)