見出し画像

飫肥に行ってきた

興味を持ったいきさつ

昨年の秋、宮崎県南部の城下町、飫肥に行ってきた。僕が飫肥に興味を持ったきっかけは小学校時代にさかのぼる。

当時福島県郡山市に住んでいて、郷土史の研究家が郡山の歴史を講演する授業があった。社会の授業は好きだったし、もとから伝統的なものに価値を置くタイプだったから歴史の話は面白かったのを覚えている。江戸時代の郡山は宿場町。奥州街道だけではなく阿武隈川沿いにも街道があったこと、宿場の本陣や脇本陣の役割、どんな生活をしていたか。当時の郡山はあまり豊かではなく、唐辛子をおかずに米を食べていこと(白飯に唐辛子、いつかやりたいとは思っているものの、いまだにそれをやる勇気はない)。近所にある「桝形」という地名の由来や、会津に向かう街道が近くを通っていたであろう、ということ。もしかしたらここを昔の人が歩いていたかもしれないのか、、、と歴史に思いを馳せながら下校時にうろうろしまくり無事に歴史好きとなる。

講師の先生は安積伊東氏についても触れた。源頼朝が奥州藤原氏を平定した際、御家人に領地を与えた。郡山(安積)は伊東氏に与えられたとされる。伊東氏は伊東(静岡県)の出で、工藤祐経の二男の伊東祐長から安積伊東氏が始まり、そのため今でも郡山には熱海とか伊東とかにゆかりのある地名がある。安積伊東氏は南北朝~室町時代になんやかんや(面白いけど割愛)あり没落していき、伊達家の配下となり、秀吉の奥州仕置により郡山は会津領となった。
ちなみに工藤祐経であるが、曾我兄弟の仇討ちで有名である。鎌倉殿にも出てきていた。

この伊東氏、勢力のある御家人だっただけに、あちこちに領土を持ち子孫を下向させている。その一つが工藤祐経の子の伊東祐時(伊東祐長の兄弟)で、日向の国の地頭職を与えられて一族を下向させ日向伊東氏となった。そして戦国時代になんやかんやあり(ここもまた面白いけど割愛)日向伊東氏は飫肥藩五万石の大名として廃藩置県まで存続する。

系図

同じ兄弟の血筋でも、郡山の伊東氏は没落した一方、大名として残った伊東氏も存在するのだ。自分の生まれたところを治めていた同族が治めた町はどんなところなのか、そんな興味から行ってみたかった。

飫肥を歩く

秋晴れの飫肥駅

今ではレアになったキハ40に揺られ、飫肥駅についた。古い町あるあるで駅が町はずれにあるから町に入るまでちょっと歩く。ひらがなの「ひ」の形に川が蛇行していて、囲まれた中に小さく整頓された街並みがある。「ひ」の字を真横に貫く道路が町の中心らしく、スーパーに郵便局に、そして飫肥名物の厚焼き玉子屋が並ぶ。スーパーは地元資本の「とむら」である。もちろんはじめましてだったので一通り物色し、焼き肉のたれが有名らしいので買った(ニンニク強めでおいしかった)。

さて珍しいのはその厚焼き玉子。我々がそう呼ぶものとは違っていて、どっちかというとプリンに近い。卵と砂糖だけのもっちりしたプリン。殿様にも献上されていたらしい。甘い卵焼きが苦手な僕にとって得意なものではなかったものの、昔から砂糖使う料理があったなんてさすが九州、と感動する味ではあった。

お店でその場で食べた

飫肥の名物としては他におび天がある。要はさつま揚げだけど、こちらは黒糖を使っているからか結構甘じょっぱい。しかし宿のご飯にしてもどれもこれも味が濃いうえに甘い。なんで?と思ったがそれは夜に焼酎を飲んで納得する。酒自体に甘みがある日本酒と違って、焼酎がさっぱりした酒だからおかずは甘くてよいのだ。さっぱり芋焼酎の「飫肥杉」(地元の井上酒造)と甘くてしょっぱくて濃いおかずを合わせて胃に流す。これが南九州の幸せの味なのだろう。

おび天もすぐ食べてみた

飫肥の見どころは街並みにもある。お城の周りは重要伝統的建造物保存地区(重伝建)に指定されている。格子状の地割が残っていて、まっすぐな道の両側にピシッと整った石垣が続いているのは見ていて気持ちがよい。

ところどころ水路に鯉がいた
飫肥城の城門から
奥まで石垣が続く

石垣といっても野面積みのような、はまる形に積んでみました的な石垣ではなく、成形されて隙間なく並ぶ石垣である。この辺はシラス台地だからその石だと加工しやすかったんだろうか。そうでないと5万石の城下の割には労力がかかりすぎているような気もする。いっぺんこういうところに住んでみたい気持ちになるが、やっぱ石垣の維持って大変なんだろうか。都会住みのサラリーマンには想像がつかない。

夕陽を浴びる城の石垣

小さい町なので、半日あれば町を回れる。日も暮れて宿に戻った。「これが昔の街道のあとだろうか」と小学校の裏をうろうろしていた私は15年かけて飫肥までうろうろしに行った。あの授業がなかったら私はここに来てはいまい。講師の先生、ありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?