見出し画像

【雑記帳】報道に対する、自分の考え。

 様々な報道があふれる世の中ですが、人間や組織の問題に関する報道に対して、私の中で報道された側に嫌悪感を抱くものと、報道した側に嫌悪感を抱くものの二種類があることに気が付きました。
 どちらも、社会規範となるべき人たちによる、倫理的によろしくない行動だということで、同じように嫌悪感を抱くべきはずなのに、どうしてだろう?と深堀してみました。

 まず前提ですが、嫌悪感といっても「嫌い!」てほどではなく「やだな」くらいの緩いものです。報道がなくなれば、忘れてしまうような鳥頭なので。そのうえで、違いを考えています。

 報道された側に嫌悪感を抱くのは、政治家の裏金や酒の席での暴挙、未成年者に対するアレソレなどが思い出せました。
 報道した側に嫌悪感を抱いたのは、数年前の問題の掘り起こし、当事者間で解決した話の掘り起こし……。悪いのはわかってるんですが、それを鬼の首を取ったように言われても……。みたいに感じたものですね。これは、まぁ、そういう仕事なのはわかりますが、「今?」という違和感があるのでしょう。

 逆に、前者の場合は未解決で隠し通そうとしている場合が、不満なんでしょうか?オンタイムの報道なら受け入れられる?そうじゃないことも、会った気がするけど。

 報道された側への好感度ってのもあるでしょうか。やはり、好きなものにケチは付けられたくありませんからね。利己的ですが、そこは多少致し方ないと思います。声を大にして騒がなければ。

 あ、それで言うと、「不幸な人が生まれてるかどうか」てのは、私の中で一つポイントとしてありそうです。不倫の場合は、不倫された人が不幸になりますし、汚職は納税している国民が不幸といえます。酒の席での暴挙なんか、店にしっかり迷惑かかりますし。
 その一方で、当事者間で解決した問題は、現在進行形の「不幸である人」はいないとみなして、それならわざわざ流さなくて良くない?て気持ちになるのかもしれません。

 しかも、解決した話なら「悪かった人」「被害にあった人」「悪かった人を推していた人」「仕事関係者」などなど、報道で掘り起こされたことにより、可哀そうになる人が増えるような気がして、幸福になる人は増えないと思うんですよね。
 未だ解決していない話なら、被害にあった人を応援する人が増えたりすることで、きちんとした対応をしてもらえるという、幸福が生まれるはず。まあ、攻撃する人はどのタイミングのどの立場相手でもいると思うけれど。

 ほかにも、自分の中でとっさに思う感情のルールはあると思うけれど、今のところ言語化できる範囲はこの程度ですね。
 お互いに、許しあって生きていくのが、社会生成物としての責務なので、あんまり目くじらたてて生きていたくはないですが、何の反省も必要としないわけにはいかないので、悪い事したら罰は相応に必要。ということですね。

 あぁ、でも、最近は、民衆の正義が暴走を起こして、必要以上の罰になることがあるのが嫌ですね。そこを考慮して報道しろ!とまでは言えませんが、やるせない話です……。
 報道機関だってね、知りませんよね、勝手に騒ぎを大きくして新しく犯罪するような輩のこと。でもまぁ、想像できる被害なら、止められるように報道してほしいって気持ちは捨てきれませんけど。報道の自由って、何でしょうね。プライバシーとどちらを優先するのか、決めてはいけないけれど、決まってないから、難しいんでしょうね。

 話が脱線しましたが、とりあえず感じたモヤモヤはある程度言語化できたと思います。落ち着きました。

以上です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?