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6月28日、くもり

・纏まりのある話にならないんだけれど、Twitterに書くほど短くもない。そういう話をする場所が欲しかったので試しにnoteを使います。

・アイドルマスターシャイニーカラーズというソシャゲを始めた。パワプロのサクセスモードをアイマスでゲーム化しましたという感じ。ガチャでアイドルを引くと、そのアイドルを使って「プロデュース(サクセスモードみたいなやつ)」がプレイ出来る。プロデュースが終わるとガチャで貰えるアイドルとは別に「フェスアイドル」というPvPで使えるアイドルが出力される。(ガチャで引けるのはあくまでアイドルをプロデュースをする権利に過ぎず、プロデュースモードをプレイしてフェスアイドルを作らないとPvPは遊べない)。一度ガチャから出てしまえば、そのアイドルを何度でもプロデュース出来る。パワプロで選手を何人も作り直すように、プロデュースによって出力された同名アイドルが何人も倉庫に並ぶことになる。

・このゲームの性質上、プロデュースモードは「ループもの」のような様相をしている。主人公は283プロのプロデューサーとして入社し、プレイヤーがガチャで引いたアイドルをプロデュースする。指定された期間内にファン数が目標に届かなかった場合、プロデュースモードは強制終了。その時点の能力が「フェスアイドル」として出力され、その最終ステータスが「S〜F」のアルファベットで判定される(この辺り完全にアプリ版パワプロだ)。
パワプロと違うのは、パワプロは都度新しい選手が生成され、その人の物語を僕たちはプレイする。しかしシャニマスは同じアイドルを何度も何度も「はじめから」プロデュースするのだ。
例えば、F判定の幽谷霧子を作ったとする。けれども僕はF判定の幽谷霧子に満足出来ないので、また幽谷霧子でプロデュースモードをプレイする。すると物語は再び主人公が283プロに入社するところから始まり、幽谷霧子と主人公は初対面。つまりF判定の幽谷霧子と今僕がプレイしている幽谷霧子は全くの別人として生成されるのである。
プロデュースモードの最後、僕はF判定の幽谷霧子から「次こそは頑張ります」とかなんとか、次がある旨の発言を受け取った。けれど僕が「その」幽谷霧子をプロデュースすることはもう2度とないのだ。永久に失われてしまった。

・倉庫にはF判定の幽谷霧子、E判定の幽谷霧子、B判定の幽谷霧子が並び、僕は1番上手くいったB判定の幽谷霧子を実戦投入している。


・しげの秀一『リリカル・ナイト・ストーリー』を読む。表題作は竹宮ゆゆ子『わたしたちの田村くん』でも語られた「もらい子妄想」が基盤になっていた。こういう話って誰が最初に書いたんだろう。

しげの秀一『リリカル・ナイト・ストーリー』(講談社、1984)※これは電子版なので正確には2013年発行。元の出版物と電子版の発行年度や会社が違った場合の出典表記ってどうやるんだ???

竹宮ゆゆこ『わたしたちの田村くん』(メディアワークス、2005)※もうメディアワークスじゃなくてアスキー・メディアワークスなんだけれど、手元にあるのはメディアワークス時代の電撃文庫版なんですよね。どーすんの???

・「もらい子妄想」というのは、今現在わたしが生きている物語を上手く編むことが出来ず「ここではないどこかにわたしの本当の居場所がある」「本当の家族がいる」「本当の友達がいる」という自家製の閉じた物語を編んでしまうアレのこと。「もらい子妄想」としてはっきり定義したのは木村敏だったっけ。人は自分の置かれた現状に対し納得のいく論理(物語)が組めない場合に「不思議ちゃん」になる。

・どちらも少女が「もらい子妄想」を発症しており、この辺り最近話題の「男が男の弱さをそのまま語る物語が無い」にも通じるかなぁ。

・しげの秀一は「ギャアアアアアア」とか「パシュウウウン」みたいな表現ばかりでなく、感情の機微を描くのもドチャクソ上手い。

・僕は『頭文字D』のイツキのハチゴー初登場回が大好き。

しげの秀一『頭文字D』、3巻(講談社、1996)※これも例によって電子版は2012年発行

・この場面でイツキに歩み寄れるのは拓海だけなのだ。なぜなら、池谷・健二・イツキは3人で「車オタク」という共通項によって繋がっており、ハチロクと勘違いしてハチゴーを買ってきてしまったイツキの行動は、車オタクのコミュニティでは恥辱以外になり得ない。仮に池谷達が嘲笑でなく「そんなこと気にするなよ」とイツキに歩み寄ったとしても、「車オタク」で男性的に接続した中でのイツキはかえってプライドが傷ついてしまうだけだ。男性コミュニティではプライドが重んじられてしまう性質上、時として歩み寄りさえ相手を傷つけてしまうように思う(相手を「弱い男」として優しくすることによって観客に相手の弱さをアピールする、というやり方はインターネットのレスバトルでもよく見かける気がする)。

・拓海は「車オタク」の輪の中にいない。池谷・健二・イツキの繋がりとはまた別のベクトルで3人と繋がっている。彼の繋がり方は猫のようにニュートラルなのだ。
そして何より、自分で車を維持している池谷・健二と違って拓海は車に限らず人生の方向性に至るまで全て父親のおさがりで成立している人間であり、それが少しコンプレックスになっている。だから「気を使って」歩み寄るでなく、本気で「おさがりでない自分の車・好きなことを持っているイツキ」を羨ましく思うことが出来る。

しげの秀一『頭文字D』、3巻(講談社、1996)※電子版からの引用なのでこの画像自体の発行は2012年

・この後、秋名山でガラの悪い走り屋にバカにされ、キレた拓海がイツキのハチゴーに乗ってレースを…と話が続くのだけれど、まーじで良いんだよな。

・さっき「男の辛さがダイレクトに語られる物語が無い」という話をしたばっかりだけれど、こうして部分的には存在するよね。『凪のお暇』みたいな本当にしんどさ100%で、それ目的で語られる物語が少ない、メジャーでない、という話であって。

・「共通項以外で成立する“つながり”」が最近の僕のテーマのうちの一つで、どうしたら共感ばかりでない相手と繋がれるのかな、と考えている。拓海とイツキの関係性はまさにそういう繋がりで、共通項以外の部分、むしろ「わたしとあなたは違う」ことによって繋がっているフシがあり、とても素敵だと思う。

・基本的にオタク・コミュニティは共通項による繋がりで、「わたし達ってこんなに同じ!」で繋がっている。だからジャンルを離れたりすると「わたしとあなたは違う」となってそのまま繋がりが切れてしまったりする。学校で繋がった友達は必ずしも自分と同じ趣味だっただろうか、と考えてみると、決してそうではなかった。けれども、インターネットになると共通項以外での繋がりが途端に難しくなってしまう。自分でコミュニティを選べるからだろうか。自分も相手も共通項を前提として待ち構えているからだろうか。学校のように無作為で繋がれない。

・はー、なんか疲れてきちゃった。


・頭頂部を切り取られた犬

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