0503 放火と炎に関するメモ

 放火ってモチーフは頻繁に使われる。三島の金閣寺とか、中上の風俗街燃やすやつとか。ちょっと遠くなるけど、銀河鉄道の夜の蠍なんかは、ちょっと焼身願望っぽいね。フィクションにおける殺人や破壊というのは、何かを読ませるための象徴であって現実のそれとは少し勝手が違うわけだけれど、「何かに火をつけてしまいたい」という気持ちは紛れもなく現実と繋がっているし、現実にやってしまう人間もいる。建物に火をつければ、骨を残して全部燃えてしまうし、人に火をつければ、その人の「かたち」は溶けて別のものに変わる。太田哲也(事故に巻き込まれたレーサー)の手記を読んだことがあるけれど、酷いやけどの場合には、ただ、顔に数箇所の穴が開いているだけ。鼻も目蓋も唇も何もかも溶け落ちるからだ。自分のかたちが気に入らないために自殺する人は、燃えるのかも。でも焼身自殺ってあんまり上手くいかないらしい。やめておこう。

 燃えるということは「消える」という言葉に近い。あらゆる「かたち」が消えるのは、炎の中だ。だから原始儒教は火葬をしない。原始儒教ではあらゆる接続を残そうとする。親孝行とかの「孝」は、本来もっともっと広がりのある言葉で、親子間の話じゃない。あらゆる先祖、これからの子孫、それら全ての接続が「孝」。だから原始儒教では火葬をしない。肉体を燃やすのは仏教だ。仏教だと、そういうのは全部未練だから、あんまり良くない。だから日本の儒教はちょっと不思議な感じがする。死体を燃やしてしまう割には、未練がましく仏壇に写真を飾ったりする。このへんは僕が勉強してないのでよく知らない。日本人は無宗教なんかじゃないとはよく言うけれど、じゃあ何教なのと聞かれても答えられない。以前、バイト先のネパール人のオッチャンに「ニホンジン、レリジョン、シューキョー、何?」と聞かれたけれど、僕は取り敢えず「ブディズム?」と疑問形で答えるのが精一杯だった。そのオッチャンはある日突然ビザが切れて蒸発した。LINEに英語で送った「大丈夫?」
「わからない」
「何か出来ることはある?」
「ビザ無しで働ける仕事を紹介してほしい」
 一介のガキがそんなこと知ってるわけねえだろ。
「ごめん。それは出来ないよ」
 以降返事は無い。よく妻と子供と写った家族写真を自慢してきたり、鼻歌交じり仕事したり、休憩時間に僕が大学でやってきたヒンディー語を自慢すると、続きを教えてくれる愉快なオッチャンだった。

 銀河鉄道の蠍は不思議な感じがする。体が燃えてしまったら、跡形もなく消えるはずが、蠍の体は燃えたまま空で永遠に変わる。燃えている間、そこには永遠が流れている?わからないな。燃え尽きるまでは永遠なのかしら。

 煙と火を見るのが好きだから煙草を吸ってる。線香でもいいんだけど、煙草の煙も好きだから。夜に吸うのがいいね。白いからよく見えるでしょ。ちゅーか、住宅街って夜でもないと吸う場所無いしね。僕は部屋の中で吸うの嫌いだし。賃貸だもん。そういうこと一々気にするんだよ僕は。

 僕が好きな放火魔を教えてやろうか。エフトゥシェンコの詩に書いてあった放火魔の女の子。

その町では どの家も 内側から鍵かけられていた。
その町では なにもかも 悪賢かった。
町はかくさなかった 自己の痛ましい挫折を
挫折せぬものすべてに対する 憎しみを。
 
そのとき おまえは 夜 町に放火したのだ。
(草鹿外吉 訳編『エフトゥシェンコの詩と時代』)

僕は『惡の華』なら仲村さんが好きだね。

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