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石を見に行く
秋葉原に、石が、ある、見に、行こ。
秋葉原UDXでやっていたミネラルマルシェに行きました。石のコミケみたいなやつです。石がいっぱい売ってます。めちゃ混んでいる。でかいサメの歯とか、宝石とか、色々売っている。
人が多かったから、なんだか頭痛がしてきて30分ほどで出てしまったけれど、もっと見てくればよかったなあ。(人がいると言っても、全く身動きが取れないほどではなかったです。元々僕は人混みが苦手。エアコンが効いてて涼しいと感じる程度の人混み)
明日もやっているから、気になる人は秋葉原UDXへ行きましょう。
第6回秋葉原ミネラルマルシェ https://www.mineralshow.net/contents/category/akihabara/
化石と宝石が並んでいると、有機的な時と無機的な時が同居しているようで、なんだか変な感じ。
値段書いてないやつは500円だった。
宝石の時間はどこまでも無機的だ。化石が「もともとこれはなんだったのだろう」という有機的な推理を伴うのに対して、宝石にそれは無い。宝石はそれ自体で完結するよう加工されている。例えば、ティラノサウルスの想像図が時代によって変わってしまって、ガッカリするとか、そういう有機的な形を宝石は取らない。どちらかと言えば、宝石は「いま、ここ」の輝きが全てであり、殆ど場合その「いま、ここ」は半永久的なものだ。
化石の持っている時間は有機的だ。それは化石が「もとの形」を物語る必要性が高いこととに起因している。僕が今持っているオトダス(オトドゥス)の歯の化石は、これ単体で完結していない。元のサメは一体どんな姿をしていたのか、そういう想像と物語ありきで語られる有機的なものだ。化石は「失われた記憶の断片」であることから逃れることが出来ない。化石は常に断片でしかあり得ない。全身の骨格がそのまま手に入っても、それに肉が戻ることは決して無い。永久に断片なのだ。
僕は昔仲の良かった人間とのやり取りを意地悪く保存するような人間なのだが、今そうして誰かとやり取りしていた過去の自分を読み返した時に、そこで話しているのが僕自身で、僕と何らかの繋がりを持っている意識だったとは、どうしても思えない。それが本当に僕の過去だと呼べるものなのか、「それがわたしである」という情報無しに実感を伴うことがない。全く記憶は化石になる。永久に欠け続ける断片。それが肉を持って生きていたということだけは確かに情報として知ることが出来るのに、今この場所で肉を持ったものにすることが出来ない。ただ一つ肉を持たせる方法があるとすれば、それは物語ることでしかあり得ない。物語ることが、虚構が、フィクションがある種の切実さを持つのは、僕たちの時間がそういう形をしているからだ。
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