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自問自答ガールズはハイブランドの夢を見るか?

先日Twitter (意地でもXと言いたくない)で『自問自答には興味があるけど、ハイブランドは買えない』的な趣旨のつぶやきを見かけ、ああーわかるなーと思ったのでそこから派生した話。ファッション関係あるような、ないような、先日の銀座ブラブラに関係あるような、ないような。

『ハイブランドは悪である』

どこかでそう思い込んで、私は生きてきた。
私は昭和ヴィンテージ系JJGなのだが、この歳になるまで本当に、所謂ハイブランドに一切触れて来なかった。
私の母はヴィトンにもエルメスにも興味はなく、むしろどこか憎んでいるというか、嫌っているような印象だった。ちゃんと聞いたことは無いが、叔母がブランド品好きだったことが関係していたり、ブランド品そのものよりも、それを持っている人やそれを手に入れている人に対してのマイナス感情があるのではないかと思う。『仕立てのいいもの』は好きな人なので。
母方の祖母は、従姉妹がヴィトンの小物をねだるのに眉をひそめ、本をねだる私は褒められた。
『高い服飾品は悪、服や靴や財布より本の方がいいもの』
こういった経験から、私は無意識にそう思うようになったのだろう。そのせいもあってか、十代中頃くらいまで、私は「ファッション」というものにほとんど興味を示さないまま育った。流行りのファッション、というものは軽薄でくだらないもの。そんな風にすら思っていた。

学生になり、少しファッションにも興味が出てきたが、世は大原宿ファッション時代。CUTiEとケラにがっつり浸かった私が好きだったのはゴルチエやMetamorphoseだったし、憧れのブランドはMoi-meme-Moitieやヴィヴィアン・ウエストウッドやMILKやジェーンマープルだった。
年齢を重ねて、自分で自分の生活するお金を稼ぐようになってからは、さらに縁遠い存在になった。仕事柄ファッション雑誌は読んでいたが、そこにはハイブランドの一着20万以上する服や、50万、100万以上する鞄がごろごろ載っている。私の生活費の何ヶ月分だろう。無理無理。絶対無理。そもそもこれだけのお金を出して、買うだけの興味もない。ごく一部の人しか買えない服を掲載してるのって、なんか意味あんのかな、という感覚だった。
そんな感じで私の中では『ハイブランド=悪いもの・私には関係ないもの』だった。

かつてのゴスロリ少女、自問自答ファッションと出会う。

紆余曲折を経て、ファッションの迷路に迷い込んだ私は、自問自答ファッションとあきやさんに出会った。あきやさんは「とりあえず、ハイブランドを見てみてください!」とめちゃいい笑顔で言う。えー……でも……お高いんでしょう……?(あたりまえ体操)
自問自答ファッションのハッシュタグを見れば、グッチ! マルジェラ! ルブタン! シャネル! きらびやかなハイブランドのバッグや紙袋の写真とともに「買いました︎💕︎︎」報告にあふれている。( ˙꒳​˙  )oh......これをやれっていうのは無理だ。金銭的にそんな余裕はないし「ハイブランド=よくないもの」という感覚が胸の中をひっかいてくる。
しかし、とりあえず言われたとおりにやってみよう、と思う程度には、私の自我はぐにゃぐにゃになっていた。生兵法は大怪我の基。プロに頼りましょう。戦と違って作戦失敗した! ってなっても死ぬわけではないし。
それでも相手は今までさんざん避けて避けて避けて避けてきたものである。嫌いというわけではないが特別好きというわけでもないし、未知の世界過ぎて怖い、どう振舞ったらいいのかわかんない、店員さんにみっともないと思われたどうしよう、とめそめそぐずぐずしていた私にあきれたのか、友人がじゃあ行ってあげるから、と付き添いを買って出てくれた。神よ……今度酒をおごらせてくれ……
それについてのnoteはこちら。

空気を吸ってはいて、物理的には何か変わったのかといえば、何も変わっていない。店員さんからもらった、素敵なバッグの品番メモつきの名刺が財布に増えた。それだけ。
でも心持は、なんだか大きく変わったような気がする。
別にハイブランドは悪いものでも憎むべきものでもなかった。
同時に、私が手に入れられないものではないし「手に入れてはいけないもの」でもなかった。
買える・買えないはよけておいて、ただ「このブランドも私の世界の中にある」と思えるようになったというか。「我が事」になった感じがする。

多分、私の中にあった「ハイブランド=よくないもの」という感覚は母が起因であることは間違いないのだが、物やブランドそのものではなく「ハイブランド好きな人」の脳内イメージが(実際にそういう人を目にしたわけではないのに)なんか嫌だな、という感情だったのではないだろうか。
「ハイブランド品は、ラベルが欲しいだけの人が、トロフィーとして見せびらかすために、自分を誇示するために持つもの」そういう印象がいつからか自分の中にあり、それが嫌だったのだろう。色んな人がいるので、実際そういうタイプもいるのだろうが、当然のことながら物自体、ブランド自体が「よくないもの」ではない(むしろ「金銭に余裕がある」ことを安直に示すためのアイコンとして使われた結果、そういうマイナスイメージがついてしまうのはブランドにとって悪影響だろう)
なんで「なんかやだ」ってなるんだろう、ということをじっくりフラットに「自問自答」してみたら見えてきた。私自身も「実物」ではなく「ハイブランドというラベル」だけで好き嫌いを判断していたのだ。やっていることが両極端なだけで、私は私が嫌だな、と思っていたイメージと同じ行動をしていたのだと気づいた。おおきちょよ、なんという無知、なんという愚か。穴があったら入りたい。
多分自問自答ファッションに出会ってなかったら、こんなふうに気づくことはなかったと思う。

自問自答ファッションの道は、自己肯定の道

私自身、自分のことをまだ何もつかめていないに等しい。自問自答ファッションはもぐらの如く自己を掘り進めるもの、とあきやさんは言うが、それを言ったら、ほんのちょっと、土をひとかきした程度だ。
掘り進めるうちに、もしかしたら「Diorの服しか着ないわ!」という結論に達するのかもしれないし、「ユニクロの服が最高だわ!」という結論に達するのかもしれない。でもどちらも自問自答の末にたどり着いた結論であれば祝福されるべき「正解」だ。Diorでいいや、ユニクロでいいや、ではなく「これがいい」から「私が選んで」着ているのだ。そこにはあるのは圧倒的な自己肯定ではないだろうか。
きっと、自問自答ガールズは「ハイブランドの服や鞄が欲しい」のではない。「自分を自分として肯定できる最高の服や鞄が欲しい」のだ。それは同時に「自己表現」というファッションの永遠の命題を体現しようとしているのだと思う。

自問自答ファッションの最終目標は「気に入った服しか着ない究極のエゴイストになること」であって「全身ハイブランドで身を固める」ことではない。
でも本気で、全身全霊で、気に入った服を探すなら、裾野は限りなく広く、深度は限りなく深いほうがいい。選択肢は多ければ多いほうがいいし、多い、ということを知っているほうがいい。だから「ハイブランドを見に行きましょう!」なのだ。買うためではない。私だって今は買えない。でもまた行きたいと思っている。知るために。何を? 美しいものを。選択肢を。私自身の形を。

なので「自問自答ファッション気になるけど、ハイブランド買えなきゃ意味がないよなー」とか思わず、とりあえずやってみるのがいいのではないかなと思う。何かが開眼するので。
教室に行ってからずっと「自問自答ファッション」はファッションと言いつつ、生き方・哲学・心の在り方の指針のような気がしている。
「どうして、なぜをもぐらのように深く掘っていく」
「当たり前だと思っていたことを、もう一度皿の上にのせて吟味して、じっくり味わう」
できてる、と思っていても存外できていないもので、何度もやっているうちに自分の中にピントがあってくる。これが「もぐらのように掘り進むこと」なのかもしれない。
わかった! と思った時はとても気持ちがいいが、わかったと思った時は一番わかってない時なのかも……と禅の教えのようなことを思ったりする。
答えがご用意されていないのだから、自分で何とかするしかない。イエベ春で骨格ナチュラル顔タイプアクティブキュートさんならこれ! みたいなわかりやすい外部指針はない(判断情報の一つにはできるけど、それが答えにはならない)
自己肯定のための自己探求。もしかしてめちゃくちゃ難度の高いことをやろうとしているのでは……JJGすごない……?

以上が最近ハイブランドうにゃうにゃに触れた私が考えたことだ。
自問自答の道は険しく、長く、迷い多く、しかし自由で実り多く驚きに満ちて楽しいものである。
なにせ、この年齢になっても、足元から価値観がひっくり返るような衝撃と新しい自分に出会えるのだ。
私は知りたい。もっと知りたい。先入観を取り払って、フラットに、もっと自由に。いいものはいい、という勇気と自由を忘れずにいたい。
今日ももぐもぐ、頑張ってまいりましょう。

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