日常の喪失

小田嶋隆さんが先日亡くなった。
65才だという。若い。
Twitterでのつぶやきを最も楽しみにしていた人物の一人である。もうこれからあのつぶやきが新しく生成されないのか。さびしい。今日6月27日のラジオ、たまむすびでも小田嶋さんのお人柄を聞き、何だかずっとポッカリしている。

かゆいところに手が届くという言葉があるけれど、小田嶋さんは「言われてみれば自分がそこをかゆがってたことに気付く」ような、モノの見方やひりつくようなユーモアをことあるごとに例示してくれた。

数ヶ月前に祖母が亡くなったのに悲しさが全くと言っていいほど訪れていないが、小田嶋さんの訃報はこの数日、ぼくの中にえらく残り続けている。祖母の命日もよく思い出せない。この数ヶ月の日記から記録を探しているが見つからない。その時のぼくは記しもしなかったのだろうか。宗教独学者を自称する者として、身内の死に対するセンサーが微弱な自分にげんなりする。

辻村深月作品の台詞の、「人間は自分の為にしか涙を流せない」という言葉を時折り思い出す。それに鑑みると、疎遠になってしまった祖母の喪失よりも、小田嶋隆という自分の日常の一部が喪われた事を悲しんでいるのだ。そんな自分を憐れんでいるのだ。

ぼくはこの先どこまでいっても自分の為にしか生きられない確信に近い予感がある。ぼくはぼくの事を愚かだと思っているが誰よりも愛しい。妻よりも、我が子よりも。自分を愛してくれるから我が子も妻も次いでのように愛しいのかもしれない。矮小な人間だ。主体的・能動的な慈愛を心がけても、相手が僕を拒絶すれば必ず憎んで呪うのだ。全ての受けた恩を忘れて蔑ろにし、自分が与えた恩を数えあげては押し付ける。

このような自分をどうにか出来るものとは到底思えない。到底思えないが、どうにかしようという気持ちでいるもう一方の自分も捨てることはできない。

師と仰ぐ内田樹によれば、矛盾に耐えることで成熟はやがて訪れるらしい。成熟はその瞬間には立ち会えない。「思い返せばあの頃に比べて幾分か大人になったかなぁ」となるらしい。スカッとしない教えである。でもこういう話は何だか救いになる。

小田嶋さんの文章にも近いものを感じている。モヤモヤさせたまま元気になる。亡くなって一層この人のことを知りたい、学びたい、少しでも何かを受け継ぎたいと思った。

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