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第4話 ホームシック

 ホームシック。
 それは住み慣れた家や故郷を離れて、異常な程に寂しくなったり恋しくなったりする気持ち。郷愁の事。
 辞書にはそう載っている。
 寮生はみんな、住み慣れた故郷を出てきている。だから郷愁は当然ある。しかし辞書で定義されているホームシックとは若干趣きが異なる。寮生のホームシックは、もっとポジティブなのだ。

 30年前、世の中に携帯電話はなかった。いや、どこかに存在してはいたのだろうが、平野ノラのようなバカでかいヤツで、一般庶民には全く関係のない代物だった。私達の連絡手段は、固定電話と手紙しかなかったのだ。
 そしてその頼みの綱である固定電話は、寮内に3台しかない。しかもそれはかかってくる専用である。こちらからかける事は出来ない。
 かける用の電話は、玄関の靴箱横に置かれた3台の公衆電話だった。
 かかってくる方の電話は事務室内にあり、確か10時までしか受け付けなかったし、公衆電話は11時で使用禁止となっていた。
 夜、夕飯を食べお風呂に入り一息つくと、寮生達はちょっとした郷愁にかられる。そして続々と公衆電話に集まってくる。何せ総勢100人の寮生である。毎晩10時頃には靴箱横から廊下に向かって、小銭を握りしめたスッピン女子の長い列ができていた。
 因みに、この列の中には郷愁組と青春組がいる。郷愁組は相手が家族なので割とすぐに電話を切るが、彼氏が相手の青春組は電話が長い。しかし寮生は遠慮がないので、相手が彼氏らしいと気付くと、後ろから何やかやとヤジを飛ばす。

 ごめん、ギャラリーがうるさいから今日は切るね。

 青春組の電話は、このお決まりのセリフで終わる事が多い。
 郷愁組はヤジこそ飛んでこないものの、周りが賑やか過ぎて、家族の声にしんみりできるような雰囲気がない。だから懐かしい家族の声を聞いて少しほっこりすると、電話を切って部屋に戻る。戻った先には常にルームメイトや他の部屋から押しかけた誰かがいて、毎日がわいわいと合宿状態だ。これで一体どうやって郷愁にひたれよう。
 つまり、寮生達はホームシックになりたくともなりきれない状況下にあるのだ。
 そんな私達が、班丸ごとホームシックに陥った日が1日だけあった。ゴールデンウィーク明けのある夜だった。
 その日はなぜか班の全員が私の隣の部屋に集まっていた。みんなゴールデンウィークに実家へ帰省していたため、誰ともなく地元や高校の頃の思い出話を始めた。部屋の空気がいつになくしんみりしてきたその時、部屋に森高千里の『雨』が流れ始めた。その部屋の住人であるメグミのかけていたカセットテープだった。

ひとつひとつ消えてゆく雨の中
見つめるたびに悲しくなる

 誰かがぐすんと鼻をすすった。そこからはもう涙の連鎖である。何だか分からないけれど無性に哀しい。やたらと故郷が懐かしく、切なくなる。もうみんな号泣である。
 冷静沈着なマイちゃんも、個性の爆発したリョウコも、クールな美人も色っぽい魔性系も、みんな泣いた。中でも『雨』の持ち主のメグミは誰よりも盛大に泣いていた。メグミは帰国子女の一人っ子で、常日頃から両親の事が大好きだと公言していた。誰かが泣き止みかけても、メグミの盛大な泣き声につられてまた涙が溢れる。流れる曲も、ずっとバラードが続いて、更に涙を誘った。
 私の脳裏には地元の広い空が浮かび、懐かしい校庭から野球の音が聞こえてくるような気がした。それはキラキラと輝いて、二度と手元に戻ってこない宝物のように思えた。流しても流しても涙が止まらず、部屋の真ん中に置いてあるティッシュに手を伸ばす。
 その時、ちょっとした疑問が頭をよぎった。
 なぜ部屋の真ん中にティッシュがあるんだろう。
 というか、いつの間にティッシュが出現したのだろう。
 なぜこれだけみんながティッシュを大量消費しているのに、ティッシュが無くならないんだろう。

 そして目撃した。盛大に泣いているメグミが、ティッシュの残りをちらりと目で確認し、新しい箱と交換したのを。
 私の目の前から、故郷の懐かしい空がすっと消えた。私はメグミを凝視した。
 するとメグミは流れる涙と鼻水を拭きながら、今度は冷静にカセットテープを物色し、曲が終わるのを待ってすぐに次のテープに入れ替えた。
 涙を誘うバラードが新たに始まった。
 作業を終えたメグミは、ティッシュを何枚も手に取り、わぁっと更に盛大に泣いた。
 周りの雰囲気につられて、そのまま泣きながら、私は戸惑っていた。
 今のは何だったのだ。メグミの涙は嘘なのか?みんなに合わせてお芝居をしているのか?
 しかしメグミの涙は本物だった。演技にしては上手過ぎた。
 私はメグミの演出に戸惑いを覚えながら、しかし結局その演出に最後まで大泣きした。

 しばらくしてその日の話が出た時、誰かが、メグミは泣きながらティッシュ出してたよね、と言い出した。すると、音楽も変えてた、ちゃんとバラードを選んでた、と他の者も口々に指摘した。皆泣きながら気付いていたのだ。そして、え?と思いながら泣いていたのだ。
 人間は周りの雰囲気につられると、頭のどこかが醒めていても泣けるものらしい。人の涙を信用してはいけない。
 
 その後、この30年間メグミはずっと、愛を込めて「二重人格」と言われ続けている。
 

 

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