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『権藤、権藤、雨、権藤』は本当にあったのか? 投手ローテーションの変遷 プロジェクト <002>1961年8月分追加調査

先日、バイトの帰りに都立中央図書館に立ち寄り、4時間近くかけて調査した1961(昭和36)年権藤博(中日)の投球内容調査の続き。

初回調査では、開幕から7月までにとどまり、ぶっちゃけ首が前後左右に動かせなくなるほどこわばってしまったので、2回目の今回からは「さらっと、軽く。オレの悪い癖でもある“のめり込み”を避け、やりこまないこと」を命題にし、今度はさっと1時間半のみ。
新聞の縮刷版とにらめっこして、権藤博の登板内容を書き写してきた。

まあ、そもそも、現在は本業の書き仕事を複数溜め込んでしまっているため、長い時間をかけられる余裕はないのが正直な現状だ。
それに、一度ドバッとリキを入れて精力を出し切ってしまうと、それで力尽きてしまい、三日坊主的に自然消滅することも多いのがワタクシの悪いクセでもある。

ここはひとつ、バイト帰りに必ず図書館を通過するという物理的優位性を活用して、苦手としている「短時間を周期的に重ねて積み上げる」というスタイルに挑戦するのもいいではないか。
そんな想いもいくぶんあり、実際には図書館の前に来たときは少々足取りは重かったのだが、意を決して中に入った。

そうして得た権藤博ルーキーイヤである1961年8月の登板記録は、、、
13試合に登板。9先発、そのうち8完投、そのうち2完封。
8勝2敗 セーブ相当1 95イニング

、、、ってバケモノかい!? って成績を相変わらず残していた。
これ1ヶ月の成績だからね?

しかもだよ。今月もひとつやってるよ。例のアレ。
そう、「ダブルヘッダーで2試合とも登板」というやつ。
8月27日の阪神戦で第1試合を完投勝利したあと、第2試合でも先発・板東英二をリリーフして勝利投手になっており、なんと1日で2勝稼いでいた。
ただ、この頃になると、やはり疲労の影は隠しきれておらず。
その翌々日の国鉄戦にリリーフ登板した際は、リードを守りきれず敗戦投手になっている。

当たり前だよ! こんなに投げさせていたら、疲弊するに決まってる!
と声高らかに当時の農人監督を攻めたいところなのだが、権藤さんのすごいところは、なんと! その翌日も先発マウンドに上がり、延長10回を投げきって完投勝利を収めてしまうのだ。
これじゃ、「勝ってんだからOK」となってしまうがなーーー!? である。

ただ、いくらこの時代といっても、ルーキーだった権藤をこれだけ登板過多させることについては当時の新聞記事でも危惧される記述は散見されていた。そもそも、シーズン開幕前にはパ・リーグで1シーズンの投球回数に成約を設けて、エースを酷使するのを抑止しようとするルール設定もなされていたくらいなのだ。ただ、それは守らなかったとしても、ペナルティーを課すものではなかったので、今でいうところの「完全にスルー」されてしまったようだが……。

だって、パ・リーグでは稲尾さんが権藤さんを上回るペースで勝ち星を挙げているからね? 前回も書いたけど、この年、42勝しちゃうんだから1シーズンで。
だから、当時、権藤さんを心配する声としては、あくまで「“ルーキーをこんなに酷使させたら”潰れてしまうよ」という言い方になっていた。
とにかく、この時代であれど、投手の登板過多についえは決して手放しで称賛されているわけではない、ということだけは脳内にとどめておきたい。

それと、もうひとつ。
8月に入ると、雨が全然降らなくなったよ😅
雨天中止になったのは、8月20日の大洋戦ダブルヘッダーのみ。

そのため、メインテーマの「権藤、権藤、雨、権藤~」に、これまで以上にリアルに適合しているローテーションには出会えなかった。

権藤博(中日) 1961年8月の登板

↑こんな感じね。
強いていえば、先ほど話題にだした8月下旬の阪神、国鉄と流れていくところで、
権藤、権藤(ダブルヘッダーで連投)、移動日、権藤、権藤、移動日
となるところくらいだろうか。

この頃は、連投も4回くらいあるとはいえ、メインとしては中2日か中3日が多かった反面、先発した日はほとんど全部完投するサイクルという感じだった。

これが9月になって、変わってくるのか、否か?

中日は8月末の時点でセ・リーグ首位。この年好調の国鉄と、王者ながら世代交代の途中でチーム力を急速に失いつつある(とはいえ強い)巨人との三つどもえでバリバリの優勝争いの真っ最中という際どい状況において、権藤さんの存在価値はますます上がっていくばかりだ。

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