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「弁道話」を学ぶ(1)


      

『正法眼蔵』の勉強に戻る。

これより「弁道話」巻を読み進みたいと思う。
この巻は、禅宗の「正しい信仰」の考え方、つまり何故、仏道を歩むのに、正法を行ずるに坐禅でなければならぬか、との疑問に直に答えている。

ただ坐禅しているばかりでは意味は無いと主張する人々に対し、坐禅する事実こそが、諸仏自受用三昧の境界に入っている、その事実を信じよ、と説き、「正信」を「外道」の俗信と対比させておられる。釈迦牟尼仏以来、諸仏が延々と伝承してこられた「自受用三昧」がキーワードのようだ。

道元禅師ご自身、天台修行中、「すべてに仏性が備わっているなら何故、修行が必要か?」と疑問を抱かれ、宋に渡った。そして宋から帰国した4年後の1231年(寛喜3)32歳のとき、京都深草の安養院閑居中に寂円、懐奘、了然尼らの弟子に行われた法話である。

前半部分では、天童如浄に参学し釈迦牟尼仏の仏法に目覚めたのは”坐禅一行”にあったとし、「座禅こそ万人等しく真の覚者たり得る正門である。修(坐禅の行)の他に「証」(悟り)はない」と「修証一如」を説かれた。

「弁道」とは、その坐禅による仏道修行を意味し、道元禅師は、「これこそ釈迦仏正伝の仏法」と宣言し、後半部分で18項目に亘って丁寧に「設問自答」形式の法話を展開しておられる。

道元禅師は、この「正伝の仏法」を”禅宗”と同一視される事を嫌い、自らは「道元禅」と称しておられたと言われる。そして後世の研究者は、これこそ道元禅師の新しい「坐禅弁道立教」の開山宣言と評している。

そこには「本証妙修」や「修証一等」「正身端坐」「自受用三昧」など他にはみられない道元禅師独自の教えが詳細に説かれている。中盤以降の18則の問答は、次のとおりだが、実に興味深い。少し丹念にじっくりと学んでみたいと思う。

1:仏法には多くの修行法があるのに坐禅だけ取り上げるのは何故か?

2:坐禅だけが正伝の仏法に入る正門となるのは何故か?

3:我々凡夫は祖師が行ってきた坐禅修行は出来ぬ。経を読み念仏すればいい?

4:真言宗など伝来の奈良仏教より即心是仏の禅宗が何故、優れているのか?

5:三学(戒・定・慧)の定学、六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の坐禅が如来の正法を集めるのは何故か?

6:仏家には四威儀(行住坐臥)があるが、その一部の坐禅を勧めるのは何故か?

7:悟りを得るための坐禅と言うが、すでに仏の正法を得た者も坐禅するのか?

8:多くの祖師が中国に行って教えを持ち帰ったが正法は伝えなかった。何故か?

9:これまでの祖師は、正法を会得していたのだろうか?

10:生死を解脱し、心性常住を知れば良いとする者も多い。何故、坐禅が必要?

11:坐禅をする者は戒律も守るべきか?

12:坐禅をする者は真言や止観をも兼ね修めることに妨げはあるか?

13:坐禅は、在俗の男女も行うべきか? 出家者だけか?

14:わずらわしい世事に関わる在家者が坐禅修行出来るのか?

15:(鎌倉時代の)この末法の世であっても正法を得ることが出来るのか?

16:即心是仏の教えを理解すれば坐禅など不要ではないか?

17:中国やインドには悟りを開いた者がいる。坐禅修行と関係ないのでは?

18:性格の劣った衆生は多い。彼らが坐禅して悟りを開くことが出来るのか?

 周到に準備された「弁道話」の構成、僅か32歳の学僧が堂々と世に宣告された完璧なる論旨に驚かされる。私自身、共感する設問も多い。

 道元禅師独特の禅語がいっぱい散りばめられた超難解文書だが、増谷文雄先生の註解書を手にじっくりと時間をかけて学ばせていただきたいと思う。

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